第百六話:消えた光
Scene.412 一方、世界は。
【聖樹エリュシオン】
大地の賢者ゲブはゆっくりとその岩の目蓋を上げた。
彼が手を触れている聖樹の輝きが明らかに弱まっている。
天まで届いていた神々しい光の柱が揺らぎ、今にも消え入りそうだ。
周りで復活の喜びを分かち合っていた星の民たちが不安そうに空を見上げている。
『…光が消えた…』
ゲブの低い声が聖域に響く。
『調停者の魂の輝きが…。…まさか、あの『傲慢』め…。あの子の心の一番脆い闇に付け込んだか…!』
ゲブは遥か北の天頂の霊峰を睨みつけた。
2000年に渡るゲブの悲願がようやく実を結んだ奇跡の光。
それが今世界から失われようとしていた。
【砂漠の国 ソルダート】
新設された国軍の若き隊長カイトは、生まれ変わったオアシスの街をパトロールしていた。
人々は笑顔で働き、子供たちは元気に駆け回っている。彼が守りたかった平和な光景。
全ては、あの銀髪の姉ちゃんがもたらしてくれた奇跡だ。
その時だった。
空を覆っていた太陽がふっと翳ったような気がした。
街を吹き抜ける風が急に冷たくなる。
道端で楽しそうに笑っていた人々の会話が途切れ、その顔に一瞬言いようのない「不安」の影が落ちた。
街全体を包んでいた希望の熱気が急速に冷めていく。
「…?」
カイトは胸騒ぎを覚えて立ち止まった。
そして無意識に北の空を見上げる。
「…姉ちゃん…?何かあったのか…?」
彼の手は強く剣の柄を握りしめていた。
【怠惰の島々】
ハンモックに揺られ穏やかな時間を過ごしていたベルの目がゆっくりと開かれた。
今まで心地よく頬を撫でていたそよ風が完全に止まっている。
波の音も聞こえない。
かつての『永遠の凪』が戻ってきたかのような不気味な静寂。
だがそれは安らぎではなかった。
ただ全てが「無」に還っていくような虚しい静寂。
「…あの子」
ベルは体を起こした。
その眠そうな瞳が初めて焦りの色を浮かべていた。
「…泣いてるのか…?…いや、もっとひどい…」
「心がなくなっちまってる…」
【名もなき街の酒場】
一人の吟遊詩人が新しい英雄譚を歌い上げていた。
『黒狐』と『白星』そして『紅月』の三人の冒険譚。
魔王軍を打ち破り、大罪を次々と浄化していく希望の物語。
酒場の人々は固唾をのんでその歌に聴き入っていた。
『―――そして黒狐は最後の敵へと挑む!』
詩人が高らかに歌い上げたその瞬間。
バチンッ!と彼の奏でるリュートの一番太い弦が切れた。
同時に酒場中のランプの炎が一斉に揺らめき消えかける。
えもいわれぬ悪寒がその場にいた全ての人々の背筋を駆け抜けた。
「…なんだ?急に寒気が…」
「…何かとんでもなく悪いことが起きたような…」
歌は止まった。
始まったばかりの英雄譚はその結末を迎えることなく、不吉な沈黙の中に閉ざされた。
世界中が感じていた。
自分たちの希望の光が今まさに消え去ろうとしていることを。
だがその絶望的な状況をただ見守ることしかできずにいた。
Scene.413 約束の日
世界のてっぺん。
雲海を遥か見下ろす天頂の霊峰の頂。
そこは絶対的な静寂に支配されていた。
水晶の玉座の上空には、人の形をした純白の光の化身…『傲慢』の魔人ルシエルが静かに浮遊していた。
その周りには厄災級の魔物たちが臣下のように佇んでいる。
全ては彼の描く完璧な世界のための駒。全ては彼の絶対的な意志の下に。
約束の三ヶ月が過ぎた頃。
その完成された静寂を切り裂いて空間が悲鳴を上げた。
黄金の紅蓮の炎が空間を焼き切り、一つのゲートがこじ開けられる。
そこから二人の少女が転がり込んできた。
希望と再会への期待に満ちた二人の声が静まり返った山頂に響き渡る。
「お姉ちゃん!」
「莉央様!約束通り参りました!」
だがその声に応える者は誰もいなかった。
二人は目の前に広がる異様な光景に言葉を失う。
そして見た。
その視線の先に。
彼女たちが信じて、愛して、この三ヶ月間その一心で戦い抜いてきた最強の女の、その成れの果てを。
Scene.414 光を失った亡骸
光の化身ルシエルの足元。
そこに莉央はいた。
まるで壊れた人形のように冷たい水晶の地面に小さく蹲って。
彼女の誇りであった黒の戦闘服は無残に引き裂かれ血と泥に汚れている。
その手元には粉々に砕け散った二本の愛剣『星屑』の残骸。
体はぴくりとも動かない。
ただかろうじてその胸が浅く上下し命がまだ尽きていないことだけを示していた。
だが何よりも絶望的なのはその顔。
虚ろに開かれた瞳。
かつてどんな絶望の淵にあっても獰猛な光を失うことのなかったあの瞳。
その光は完全に消え失せていた。
まるで魂を抜き取られたただのガラス玉のように何の輝きも映さずただ虚空を見つめている。
彼女はもう戦士ではなかった。
英雄でも調停者でもない。
ただ呼吸をするだけの廃人。
莉央という人間の魂の亡骸だった。
希望に満ちていたエリナとリラの声は、その喉の奥で凍りついた。
二人が目の当たりにしたのは、あまりにも残酷で、あまりにも絶対的な、敗北の光景だった。




