二十七話 闇の代償
――カチャリ。
個室の鍵をかけた瞬間、ベリーの膝から力が抜け落ちた。
「……っ、あ、ぐぅ……!」
便座に座る余裕すらなかった。ベリーは冷たいタイルの床に崩れ落ち、背中をドアに預けて、喉の奥からせり上がってくる悲鳴を必死に噛み殺した。
荒い呼吸と共に、震える右手で、服の左袖をまくり上げる。
「はぁ……はぁ……ッ!」
かつてルナの暴走した魔力を受けた左手。その指先から肘にかけて、まるで黒い毒蜘蛛の巣のような血管が浮き上がり、ドクン、ドクンと不気味に脈動していた。
ルナが魔力を使う度、そして感情を昂らせて瞳を黄金色に輝かせる度、この左手はルナの魔力と共鳴し、焼けた鉄杭を打ち込まれるような激痛を発する。
「やめて……収まれ……!」
ベリーは、その激痛を押し戻すように、無意識のうちに魔力を手の奥へと凝縮させた。
手の甲に浮き出ていた血管が、ピクピクと震えながら戻っていく。
呪いの奔流を無理矢理手の中心に押し込め、圧縮していく。
ベリーがルナの近くでその力を浴びる度、呪いはどんどん膨れ上がる。
これ以上呪いの力が膨れ上がれば、取り返しのつかない事態になることを、ベリーは本能的に察知していた。
(痛い……痛い、痛い……!)
涙が勝手に溢れて、頬を濡らす。
さっきの「お腹が痛い」という嘘は、あながち間違いではなかった。あまりの痛みに、本当に吐き気がしていたからだ。
(……でも、良かった……)
ベリーは、汗にまみれた額を冷たい床に押しつけながら、朦朧とする意識の中で思った。
(ルナは全然、気づいてないみたい……。あはは、最低……)
もし、この手のことを知られたら、ルナはきっと、自分を責める。泣き叫んで、もう二度と魔術を使わないと言い出すかもしれない。あるいは――月光の道化なら、壊れた玩具を見るような目で、「直してあげる」と無理矢理魔力を注ぎ込んでくるかもしれない。
どちらにしても、最悪だ。
(ロジャーを助けるんでしょ? ルナは、ヒーローなんだから……)
ベリーは、親友の夢と目的を守るため、破裂寸前の呪いの塊を左手に握りしめたまま「ただの腹痛」として隠し通すことを、改めて心に誓った。
数分後。
脈動が落ち着いたのを確認して、ベリーはゆっくりと立ち上がった。
洗面台の鏡を見る。顔色は最悪だ。目の縁も赤い。
「………」
ベリーは冷たい水で顔をバシャバシャと洗い、タオルで強く擦って血色を戻した。
そして、鏡の中の自分に向かって、口角を無理やり引き上げる。
「大丈夫。私は、ルナの親友。……怖くなんて、ない」
ベリーは深呼吸を一つして、笑顔の仮面を完璧に張りつけた。
――カチャリ。
鍵を開け、ドアノブを回す。
「お待たせー! あー、スッキリした!」
ベリーは、いつもの明るい声で、廊下へと飛び出した。
その左手を、誰にも見えないように深く袖に隠したまま。
「ベリー、遅いよー!」
ルナがベリーに向かって手を振った。
「アハハ、ごめんごめん。あ、そうだ。ガリウスさん、ありがとうございました! おかげで……漏らさずに済みました」
「そうか。それは良かった」
ガリウスは端的に答えた。
「ベリー、聞いて! ガリウスさんがね、ロジャーの無実証明を手伝ってくれるって! それと、ロジャーに会わせてくれるかもしれないんだ!」
「えっ、ロジャーに?」
「うん!」
「会えるかどうかは、わからんぞ。ルートは、一応二つあるんだが……」
ガリウスの言葉に、ルナは少し反応した。
「『一応』?」
「……ああ。私がいつも巡回の際に使用するルートと……もう何十年も使われていない、旧式整備シャフト群だ。だが、私は、断然安全な方のルートを推すぞ」
ガリウスはきっぱりと言った。
「『安全な方』? それって、どっち?」
ルナが眉をひそめた。
「私がいつも巡回の際に使用するルートだ」
当たり前だ、というような口調で、ガリウスが返した。
「へぇ、そっちって、絶対安全なの?」
ルナは疑わしげに尋ねた。
ガリウスが頷く。
「もちろん、安全に決まっているだろう」
「なら、いいんだけどさ」
ルナは納得いかない顔をしたが、ガリウスの提案に従うことにした。
「よし。行くぞ」
ガリウスは、魔力銃の安全装置をかけ、懐から特殊なIDカードを取り出した。
「このルートは、私の巡回権限を使ってロックを解除していく。魔力センサーは最小限にしか作動しないが、絶対に魔力を無闇に使うな」
「はーい」
ルナは、まるで他人事のように手を振った。
ベリーはコクコクと頷いているが、何か別のことに気を取られているようだ。
唯一周囲を警戒しているのは、ジェームズだ。
ガリウスは、ジェームズとは気が合いそうだ、と思いながら、重厚なセキュリティドアにIDカードをかざした。
――ピッと、低い認証音が響き、扉が開く。
そこは、先ほどの錆びた旧搬入口の廊下とは打って変わって、磨き上げられた床と、青白い光が続く、いかにも治安維持本部の中枢部へと続く廊下だった。
「行くぞ。静かにしろ!」
ガリウスが先導し、ルナ達は緊張しながら廊下を進み始めた。ルナは隣を歩くベリーの顔を心配そうに見たが、ベリーは笑顔で「大丈夫」と小さく頷いた。
――ビッ、ビッ、ビッ!
廊下の隅に設置された小さな緊急魔力受信機が、けたたましい音を立てた。同時に、天井の照明が青から不吉な赤色へと点滅し始める。
「な……っ!?」
ガリウスは慌ててそれを操作し、耳を澄ませた。顔から、血の気が引いていく。
「まずい。ルミナ・アウレアが、本部の全区画に一級非常警備を発令した。そして、私の巡回ルートを封鎖して、特殊な対魔術部隊を配備したようだ」
ガリウスは、低く唸った。
「どうやら、私が王殺しの真実を探っていることを、すでに嗅ぎつけていたらしい。あいつの精鋭部隊が到着するまで、あと約三分、というところか」
「マジか」ルナが舌打ちをした。
「それなら……」
「待って!」
ジェームズが、ルナの腕を強く掴んだ。ルナが旧式整備シャフト群を指差すよりも早く、ジェームズは冷静な判断を下した。
「ルナ! そのルートは、何十年も使われていないって言ってたよね? 内部の状況は不明、トラップの場所も不明。そこに三分で飛び込むのは、無謀な正面突破と変わらない!」
ジェームズは、できるだけ早口で、ルナへ言った。
「今から三分。敵の部隊は、正面の廊下から来る。けど、僕達が来た旧搬入口までは、まだ時間があるはずだ。いったんディープ・シャトルまで引き返すべきだよ。作戦を練り直そう!」
ガリウスは、ジェームズとルナを交互に見た。
「……引き返す? 冗談ではない。今引き返せば、我々はルミナに裏切り者として特定され、二度とこの本部へ入ることはできなくなる!」
ジェームズは怯まず、声を絞り出した。
「ですが、生きていれば次があります」
ガリウスは、少し考えた後、不本意そうに頷いた。
ルナ達は、全速力で引き返していた。
「やば、追いつかれた!?」
シャトルが隠された搬入口まで、あと数十メートルの距離で立ち往生してしまった。精鋭部隊の足音は、既にすぐそこの曲がり角にまで迫っている。
「どうする? 隠れる場所がない!」
ジェームズが叫んだ。
「隠れるのではない! 上へ行くぞ!」
ガリウスはそう叫ぶと、天井を指さした。
「ここの警備は、床と廊下に集中している。この本部には、古い換気ダクトが張り巡らされている。旧搬入口の外にも、巨大な整備口が通じているはずだ!」
「天井!?」
ベリーが驚きの声を上げた。
「ああ。それが一番確実だが……」
ガリウスは一度言葉を切り、そして続けた。
「……誰か、天井に穴を開けられるような者はいるか?」
ルナは、ニヤッと笑った。
「私を誰だと思ってるのよ? 天井に穴をあけるなんて、朝飯前よ!」
その瞳に、黄金色の光が閃く。
追っ手の兵士たちの「この先にいる!」という叫び声が、すぐそこまで近づいてきた。
ルナは、天井の隅、排気口の蓋のわずかな隙間を狙って、冷たい魔力塊を放った。
――ドゴォン!!!
轟音と共に天井のコンクリートと鉄骨が爆砕し、天井に直径一メートルほどの巨大な穴が開いた。崩れた破片が床に降り注ぎ、粉塵が舞う。
同時にガリウスが、素早く口を動かして、何か呟くと、ルナ達の体がふわっと宙にういて、天井に空いた穴に向かって飛んでいった。
いかがでしたか?
ベリーが可哀想ですね!
書きながら、心の中で、もうやめてやれ、って自分を殴打してました。




