二十五話 氷の亀裂と、目覚める死体
ベリーの瞳は、ルナではなく、巨大な氷の塊の奥を見つめていた。その問いは、ジェスターが残したメッセージの最も残酷な真実を指摘していた。
ルナは、ベリーの問いに返事をしなかった。ただ、杖を握る手にさらに力を込めた。この世界が背負う闇の深さに、改めて直面させられた気分だった。
ルナは呼吸を整え、杖を高く掲げた。
「取りあえず」
その杖の先端から、眩い青白い光が螺旋状に立ち昇った。それは“光の支配者”ルミナが放つ灼熱の太陽光とは対極にある、絶対零度の輝きだ。
「鍵ってのを手に入れましょう」
「主! これほどの力を解放するのか!? 御身の肉体への負荷が危険域に達するぞ!」
オラクルが頭の中で、警告した。ルナの血管が熱で膨張し、皮膚の下で青い光を帯びて光っているのが分かる。
「うるさいわね。本気でやらないと、あの忌々しい鍵は手に入らないでしょ?」
ルナは激しい口調で答え、アダムに忠告した。
「アダム、離れておいた方がいいわよ」
ベリー達はすでに、ルナからある程度の距離を取っている。
「ルナ様。私は命に代えてもこの場を離れません!」
アダムは、ルナの力の放出に恐怖どころか、恍惚とした表情を浮かべた。彼はルナから光が溢れるその光景こそが、この世の真理だと信じている。
ルナは、今自分の身体から発せられている圧を意識した。
少し力むと、その圧はブォッと増える。
全力で攻撃を繰り出せば、何が起こるかわからない。それをわかって、ルナはアダムに忠告したのだが、それを拒んだなら、あとは自己責任だ。
「ハァ。勝手に死ねば」
ため息を一つ吐き、ぼそっと呟くと、ルナは絶叫して杖を振り下ろした。
「ヤ―――――――ッ!!!」
青白い光は三日月状の巨大な刃となり、音速を超えて、巨大な氷の塊へと叩きつけられた。
――グォォオオオン!
世界が割れるような轟音。氷河全体が振動し、天井から大量の氷の粉が降り注いだ。ルナの放った魔力は、まるで熱したナイフがバターを切り裂くように、数万年にわたる封印の氷を、一瞬にして砕き割った。
粉塵と冷気が収束した時、氷の塊は砕け散り、その内部が露わになった。
そこに立っていたのは、一人の人間――ではなかった。
巨大な氷の中で、長い年月をかけて異形に歪んだ失敗作。身体の半分は巨人族の躯体を保っているが、残りの半分は無数の触手と、異質な金属質の装甲が融合している。そして何よりも、その胸部には、心臓の代わりに、鈍い光を放つ黒い欠片が埋め込まれていた。
「あれが……鍵……!」
ルナの吐息が白く凍る。
そして、その異形の失敗作が、数万年の沈黙を破り、ゆっくりと、ルナの方へ首を向けた。
その顔は、半分は無残な化け物だが、残りの半分は、凍りついたまま、恐ろしいほどに穏やかな老人の顔をしていた。
「ああ……おいでになられた……夜の御子よ……」
失敗作は、静かに、しかし深い響きのある声で語りかけようとした。
しかし、その瞬間、ルナの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
(……アハハ!)
頭の奥底で、鈴を転がすような、無邪気な笑い声が響いた。
これはオラクルでもヴァリアントでもない。もっと深く、暗い底から湧き上がってくる、黄金色の衝動。
(ねぇ、ルナ)
ルナの心臓がドクンと跳ねる。視界の端に、楽しそうにスキップをする「自分自身の影」がちらついた。
(あたしと代わってよ。全部壊してあげるから! ルナのいらないものを、あたしなら簡単に壊せるんだ。ねぇ、やらせて、やらせて!)
さっきよりも、少し大きい声で「もう一人のルナ」がねだった。
「……っ、うるさい!」
ルナは頭を振り、こめかみを強く押さえた。強大な“月の力”を使った反動で、制御の鍵が緩みかけているのだ。
「引っ込んでて! これは私の戦いよ!」
(ちぇっ。ルナばっかり、ずるいよ………)
声がすぅっと遠のいていった。
安堵の息をつくルナの背後で、ふいに押し殺したような小さなうめき声が聞こえた。
「……ッ、ぅ……」
ルナがハッと振り返ると、ベリーが青ざめた顔で、左手首を右手で強く握りしめていた。
「ベリー!? どうしたの、怪我!?」
ルナが駆け寄ろうとすると、ベリーは弾かれたように顔を上げ、引きつった笑顔を作った。
「だ、大丈夫! ちょっと、寒くて……手が冷えちゃっただけだよ」
ベリーは、必死に左手を背中に隠した。
その手の甲では、かつてルナの暴走した魔力を浴びて黒く変色した古傷が、ルナから溢れ出る過剰な魔力に共鳴し、焼けるような激痛を発していた。
だが、ベリーは笑った。ルナに、余計な心配をかけまいとして。
「……そう? ならいいけど……」
ルナは違和感を覚えたが、内なる声と目の前の敵への警戒で、それ以上深く追求できなかった。
「ああ……夜の御子よ……」
再び、失敗作の老人が口を開く。その目には、哀れみのような色が浮かんでいた。
「その力……やはり、呪われた深淵の器か。……お逃げなさい。その力を使えば使うほど、あなたは大切なものを失うことになる……」
「黙って!」
ルナは叫んだ。老人の言葉が、なぜか胸の奥を抉るように不快だったからだ。
「……愚かな。光に目が眩み、闇の本質を見失うとは」
老人が、悲しげに無数の触手を蠢かせた。氷の地面がゴゴゴと音を立てて震え出す。
「お下がりください、ルナ様! この不浄なる成れの果て、私が直ちに排除し、鍵を捧げます!」
前に出ようとするアダムに、ルナは短く答えた。
「いい。自分でやれるはず」
頭の中で響く「壊しちゃえ!」という月光の道化の声に背中を押されるように、ルナは自ら危険地帯へと踏み込んだ。
口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
「来るなら来なさい! その胸の鍵、私が直接えぐり出してあげる!」
ルナが杖を振るうと、三日月状の魔力刃が再び形成された。
老人の顔をした怪物は、深く嘆息した。
「ああ……それもまた、運命か。ならば、抱くがよい。呪いの重さを」
ズオオォォッ!
怪物の半身を覆う金属装甲が展開し、無数の氷柱がミサイルのようにルナへ向けて発射された。
「遅すぎるよ。バカみたいだね!」
ルナは、月光の道化の影響を受けたかのような、無邪気だが危険な笑みを浮かべて跳躍した。
身体が驚くほど軽い。
本気で飛べば、宇宙まで吹っ飛んでしまいそうだ。
それでもルナが、バランスを崩して転んだりせず、自由に動き回れるのは、ルナの半分は、すでに月光の道化になっていたからだろう。
氷柱はルナがいた場所を貫通し、背後の氷の壁を砕いた。
ルナが空中で杖を一閃すると、青白い魔力の刃が収束し、細く鋭い光の槍へと変化した。
「よーし、ぶっ壊すよ!」
光の槍は、失敗作の巨体を覆う異形の金属装甲の、最も薄い一点、つまり黒い鍵が埋まる胸部へと狙いを定めた。
「やめるのだ、夜の御子! その鍵は……」
老人は悲痛な叫びを上げたが、時すでに遅し。光の槍は、金属と肉の境目を突き破り、胸の欠片を固定していた装甲を焼き切った。
ゴオォン!
失敗作は体から魔力の炎を噴き出し、よろめいた。巨体が後ずさり、氷の床にその片膝をつく。
「今だー!」
ルナは容赦しなかった。
地面に着地すると同時に、渾身の力で床を蹴り、その巨躯へと駆け上がった。杖を捨て、素手で、焼け焦げた胸の隙間に手を突っ込む。
「やったぁ!」
ルナがその黒い欠片を握りしめ、残酷なほど強引に引き抜こうとした瞬間、失敗作の老人の顔が、ルナを見つめた。その目には、憎しみではなく、深い慈愛と、諦めが満ちていた。
「……私の、命の全て………」
その言葉は、ルナの頭の中ではなく、直接、胸に響いた。
――ズボリ。
ルナは、一瞬の躊躇もなく、欠片を胸から引き抜いた。黒曜石のような欠片は、熱を持ち、ルナの手を強く焼きつけた。
欠片を引き抜かれた失敗作の巨大な躯体は、張っていた命の糸が切れたように、ゆっくりと、しかし確実に崩壊し始めた。金属装甲は錆びつき、肉体は塵となり、数秒後には、ルナの目の前に巨大な炭の山だけが残された。
ルナは勝利の余韻に浸る暇もなく、強く息を吸い込んだ。体内の魔力が急速に枯渇し、頭の中に響いていた子供の笑い声が、途切れる。
杖を拾い上げ、手のひらに握られた黒い鍵を見つめる。それは冷たく、光を吸い込むように鈍く輝いていた。
「……これが……」
その時、小さな嗚咽が、ルナの意識を引き戻した。
「う……く……ぅ」
ルナが振り返ると、ベリーが、先ほどよりもさらに強い力で左手を握りしめ、顔を氷の壁に埋めて震えていた。
「ベリー……」
――ゴオォオオオン!
先ほどルナが放った月の咆哮、そして、巨大な失敗作が塵となって消滅したことによる極度の魔力バランスの崩壊が、周囲の氷河全体に、一瞬遅れて襲いかかった。
大地が、いや、足元の巨大な氷の床が、凄まじい轟音と共に縦に、横に、無数の巨大な亀裂を走らせた。
「わっ!」
ルナは体勢を崩し、その手から黒い鍵が、氷の床へと弾き飛ばされた。
「ルナ様!」
アダムが反射的にルナへと駆け寄ろうとするが、足元の氷が垂直に裂け、二人の間に巨大な溝が走った。
ルナはベリーを庇うように抱き寄せ、開いたばかりの巨大な亀裂から飛び退いた。
その刹那、亀裂の縁でコロコロと転がっていた黒い鍵は、止まることなく、底知れない闇が満ちる氷の割れ目へと落ちていく。
「待って待って待って、ダメだって! あー!」
ルナが手を伸ばすが、届かない。鍵はルナの指先から遠ざかり、水面下へと、鈍い輝きを放ちながら、ゆっくり沈んでいった。
ルナは呆然と、その光が闇に呑み込まれていくのを見た。
「な……な……え、嘘でしょ!? 嘘!」
親友の痛みを対価に、命懸けで手に入れた唯一の証拠を、たった数秒で失ってしまった。
「ルナ様! ご無事ですか!」
アダムが、割れ目の向こう側から叫ぶ。
ルナは、その場にバタリと倒れた。
「ルナ様ーっ!」
証拠は失われた。残されたのは、消耗しきった魔力と、隣で震える親友の痛み、そして無力感だけ。
「ルナ様!」
アダムがこっちに来ようとしているが、ルナはもうどうでもよかった。というか、混乱していて、何も理解できなかった。
「嘘……嘘でしょ嘘でしょ嘘でしょ!? ヤバいよヤバすぎるよ、ヤバみの極みだよぉぉ!」
ひとしきり喚いて、ルナはハッと我に返った。
時間は待ってくれない。ロジャーは今も、ルミナの罠の中で、王殺しの罪を着せられたまま、拘束されているのだ。
「……もういいわ」
ルナは冷たい氷を杖で叩いた。
「この氷河も、もう長くない」
ルナは、震えるベリーの手を強く握り、言い放った。
「警察署へ直行よ。もう、証拠なんていらない。正面から行く」




