本気の恋が終わるとき
夏の強い日差し。それによって熱せられたアスファルトが今にも溶け出しそうだ。きっと、マンホールの上に生卵を落とせば、黄身が半熟になった、おいしい目玉焼きが出来ることだろう。
俺の心は、このギラギラと輝く夏の太陽のように燃え上がっていた。夏の日差しと、俺のこの心。この二つが重なり合えば、今騒がれている地球温暖化現象も頷ける。
俺の心がこんなにも熱くなっているのには、もちろん理由、原因となるものがあった。
それは、今俺の目の前にある。いや、いる。
南中高度に達した太陽が、校舎の真上から降り注いでいる。その暑さのせいで、教室にいるクラスメイトの四割強がグロッキー状態だ。午前中にあった体育での水泳の授業が、明らかに俺達の体力を消耗させていた。それに加えてのこの暑さ、退屈さ、満腹感による眠気のフルコンボだ。実際、俺もすごく辛い。眠い。最悪だ。
しかし、目の前にあるものを見ると、眠ってしまうのは余りにもったいないように思えた。俺だけが見ることを許されているような、それはまさに神聖と言うにふさわしい。
夏の強い日差しに照らし出された、真っ白なうなじが俺の目に飛び込んでくる。その美しさに、俺は人知れず惚れ惚れとする。溜息が出るくらいだ。
深く息を吐き出した後、目一杯に空気を吸い込む。すると、ほのかに彼女の香りが鼻をくすぐる。匂いなんてしていないのかもしれないが、俺には分かる。
俺の前に座っている彼女は、安藤若菜だ。二年になって同じクラスになった彼女に、俺は恋をしていた。何とも恥ずかしいことだが、まさに一目惚れだった。
決して目立つようなタイプではない彼女に、どうしてこんなにも惚れ込んでしまったのかは分からない。成績も中の中で、容姿もよく言って中の上の下、といったところか。明るくて、誰からも人気があり、クラスの中心的存在、というわけでも決してない。それなのに、俺はとてつもなく彼女に惹かれていた。恋というもの不思議なのだと、俺は改めて思い知った。
ちなみに俺は、教室の一番後ろ、しかも窓側の席に座っていた。今までくじ運はない方だと思っていたし、事実、こんな誰もが羨む人気の高い席に自分が座ることになろうとは思ってもみなかった。
ただでさえ、そんな特等席じみた場所にいるわけだが、前回の席替えのくじ引きにおける俺のくじ運は、宝くじで三等当たりなら楽に引き当ててしまうのではないかと思うくらい、ついていた。俺の求めていた全ての条件が、そのくじには備えられていたのだ。
俺は二週間ほど前に引いたそのくじを、幸運のお守りとして財布の中に入れて大切に保管している。藁半紙のプリントの裏に、ただ『8』と書き殴られているだけなのだが、俺にはその紙切れが光り輝いているように見えて仕方なかった。
これ程までに俺は彼女に好意を寄せているわけだが、それ故に告白しようなどということは考えられずにいた。本当に恋をしてしまうと、何も出来なくなってしまうということを、俺は初めて知った。いや、恋というものを、俺は彼女によって初めて教えられたのだ。
とにかく、今はこうしているだけで俺は幸せだった。贅沢なんか言い出したら、きりがない。慎ましく生きていくことは、この日本では尊ばれることじゃないか。俺はそうして生きていくことにしたんだ。決して臆病者だとか、そういうのじゃあない。
気が付くと、今日の授業の終わりを告げるチャイムが鳴っていた。その音を目覚まし時計代わりにしたクラスメイト達が、続々と突っ伏せていた身体をゆっくりと起こし始める。あちらこちらで眠気眼のクラスメイト達が大きな欠伸をしている。
さすがの安藤も、身体をのけぞらせて伸びをしている。白い腕が、繊細という言葉を具現化したような細い指先が、俺の眼前に迫る。それだけで俺の鼓動は速まった。情けなくなんかない。俺はただ純粋な青少年なのだ。
その時、安藤がこちらの方へ振り向いた。俺の心同様、純粋で真っ黒な瞳が、赤いセルフレームの眼鏡の奥から俺を射止めた。彼女は、授業の時だけ眼鏡をかける。それがまた、何とも言い難い魅力の一つと言えた。
眼鏡をかけている女性は、どうしてこうも色っぽく見えてしまうのだろうか。俺はもちろん、眼鏡をかけている安藤の方が好きだった。
「あ、ごめん。当たらなかった?」
彼女の柔らかい声が、俺の鼓膜をくすぐる。さっきの伸びで、手が俺に当たらなかったかということを心配してくれているらしい。なんて優しいんだろうか。素敵過ぎる。
「あぁ、大丈夫だよ」
やっとの思いで、俺は言った。たった一言でも、彼女と会話を交わすことで、俺のメンタルには異常なまでの負荷がかかる。何度も言うが、決して臆病なわけではない。恋だから仕方ないのだ。
彼女と目が合う。さっきから俺の鼓動は激しいパンクロック並みのツービートを刻んでいる。
そのせいで、俺は何も話せない。間が続かない。これはさすがに情けないと思うが、恋なのだ。本当の恋に落ちているのならば、多少情けなくても仕方ないだろうと思う。俺を非難する奴にこう言ってやりたい。お前は純粋な恋をしたことがないから、そんなことが言えるのだと。
「今日も暑いね。山下君は、今日も部活?」
そんな少しだけ情けない俺を気遣ってくれた安藤が、話題を振ってくれた。ありがたい。君はマリア様も菩薩様も驚く程の慈悲を備えているんだね。
「一応。部活って言っても、だらだらギター弾くだけなんだけど」
俺は苦笑しながら言った。俺は入学当初から、軽音部に所属している。部活と言っても、部員の連中とだらだら喋りながら思い出したかのように、たまにエレキギターを鳴らす程度なのだが。
「いいじゃん。ギター弾けるとかかっこいい。音楽の授業で弾いたことあるけど、難しかったもん。私なんか、いつまで経っても弾ける気がしないよ」
安藤は少し肩を落としてそう言った。
――かっこいい、だと?
俺は調子に乗らずにはいれなかった。いや、ここで調子に乗らずして、いつ乗るのだ。
「そんなことないよ。基本が出来るようになったら、後は簡単だよ。練習したら、誰でも弾けるようになるよ」
かく言う俺も、高校に入学してからギターを練習し始めたのだ。当時は全く弾けなかった俺も、今ではある程度のものなら弾ける。
「そうなの? 私も弾けるようになりたいなー。私、結構バンドとか興味あるんだ」
俺の脳髄は、何らかの電波を不正に受け取ったとしか思えないようなスピードで、あることをひらめいた。
「何なら、教えようか? 俺も初心者だから、大したことは教えられないけど」
こんなにも勇気を振り絞ったのは、小学校での音読の発表会ぶりだと思う。俺の心臓は、張り裂けんばかりの勢いで、全身に血を送り出していた。
安藤は俺の机に身体を乗り出して、大きな瞳を輝かせた。
「本当に? いいの? 教えてほしい!」
よし、と俺は心の中で雄叫びをあげた。まさか、こんなことになるとは。ただ後ろの席から見つめているだけだった俺に、チャンスが到来したとしか思えない。距離が縮まるチャンスだ。これはものにしなければ、男がすたる。
俺はさらに、なけなしの勇気を振り絞った。
「いいよ。安藤がいいなら、俺はいつでも教えるよ」
「やった! 嬉しい。ありがとう、山下君」
安藤は本当に嬉しそうに笑っていた。この俺が、こんなにも素晴らしい彼女の笑顔を引き出せるとは。あぁ、この笑顔がいつも俺だけに向けられたなら、どんなに幸せだろうか。
けれど、俺は贅沢を言わない主義だ。それは貫き通さねば。そんな俺には、安藤にギターを教えてやるなんてことは、身に余る幸福だ。それで充分なんだ。うん。満足するんだ、俺。
そして、放課後。
結論から言おう。俺は浮かれていたのだ。恋心故に。恋は人を盲目にするのだと昔から多くの人が言ってきた。自分は決して盲目になどならないと、一体誰が言えるだろう。俺はそんなことをもう二度と口にすることは出来ない。
俺は、盲目だった。いや、それどころか真っ暗になった。
安藤はホームルームが終わった後、俺に笑顔で別れを告げて部活に行ってしまった。彼女は吹奏楽部に所属している。一方の俺は、いつものように部室にギターとアンプを取りに行き、よっこらしょとそれを担いで教室に向かった。
部員の皆は、適当に教室を選ぶ。放課後であれば、他のクラスでも他学年でも関係ない。バンドでギャンギャンと騒ぐわけではない。ちょっとギターの練習をするだけだ。文句を言う人はいない。
しかし俺は専ら、慣れ親しんだ自分の教室でギターの練習をした。落ち着くから、という理由もあるが、それだけではない。
俺はいつ何時であっても、安藤を目撃できるチャンスを手に入れたいのだ。彼女が忘れ物を取りに教室に戻って来ないなんてことを、誰が言い切れるだろう。俺はその僅かな可能性にかけているのだ。
教室に入り、俺はとりあえず自分の席に腰かけた。そこで、いつも眺めている彼女のうなじの白さを思い出す。
――と、その時だった。俺は、ある物を発見した。思わず、ごくりと生唾を飲んだ。
白い物が、俺の視界ではためいている。そう、彼女のタオルだ。
窓際にある手すりに、それはかけられている。開け放たれた窓から吹き込む風で、ゆらゆらと揺れている。
水泳の授業の後、安藤がそのタオルでしっとりと濡れた髪を乾かしているのを見ていたから、間違いない。それは、安藤が使っていた、安藤のタオルだ。
安藤の匂い。――そんな言葉が、俺の脳裏をよぎった。
あのタオルには、安藤の匂いが染みついているに違いない。
俺は、瞼を閉じた。風に乗って俺の鼻に届く、甘い香り。それを思い出そうとした。いや、思い出そうとするまでもない。その素晴らしい香りは、俺の脳がしっかりと覚えてくれており、最も取り出しやすい記憶の引き出しの中に大切に保管されている。
あぁ、あの甘い香りを目一杯吸い込んでみたい。そんな野蛮な衝動を抑えることが、俺には出来なかった。
そしてその衝動を自覚した次の瞬間には、俺は目の前にかかっているタオルを手に取っていた。
タオルは、少ししっとりとしていた。窓の外に面した部分は、すでにカラッとして乾いていたが、内側の下の方はまだ水分を含んでいた。俺が触ったのは、その部分だった。
その水気が何故か、安藤の水着姿を彷彿とさせた。しなやかな肢体が頭の中に浮かぶ。それと同時に、俺の野蛮な本能が疼いた。疼くどころではない。もはや遠慮も知らずに暴れ回っている。
これは、二度とないチャンスなんじゃないか? 今日、ギターを教えてあげると言った俺へのご褒美として、あえて安藤が置いていってくれたんじゃないか? そんなはずはないと思いながらも、そう考えることによって俺は何とか自分がしようとしている行動を正当化しようとした。
そして俺は、
(1) タオルから手を放した。
(2) タオルに顔を埋めた。
二つの選択肢が頭に浮かぶ。俺は迷いながらも、(1)を選択した。そしてそれを実行した時には、迷いなどというものは綺麗さっぱり頭の中から抜け落ちていた。
勢いに身を任せ、俺は手すりからタオルをひったくった。そしてそのまま、力一杯タオルを顔に押し付けた。
あぁ、このまま窒息死出来たとすれば、それは俺の本望だ。笑って俺を見送って欲しい。そう思えるほど、タオルから俺の鼻に入り込んできた香りは素晴らしいものだった。
ずっと憧れていた香りだ。こうすることを、俺は望んでいたのだ。
頭の中で、くたくたのタオルを安藤に変換する。実際には、薄っぺらなタオルに顔を埋めているだけなのだが、俺の妄想力、もとい想像力をもってすれば、ただのタオルも一瞬にして柔らかな女体へと姿を変える。
「安藤……」
俺は無意識の間に呟いていた。すると、それが一種の呪文であったかのように、一斉に様々な欲望が騒ぎ出した。
「若菜」
そんな風に彼女を呼んだことは、もちろん想像の中でしかない。しかし今は、何となくそう呼ばずにはいられなかった。何故なら、俺は今彼女を抱いているのだ。この腕の中に。女性を抱いているという、そんなロマンチックなシチュエーションの中で、相手を苗字で呼び捨てにするなんて、もっての他。紳士の名が泣くというものだ。
「……若菜」
心の中の感情を全て吐き出そうとして、もう一度彼女の名前を呼んだ。口元にはタオルが当たってはいるが、少し大きな声だった。その自分の情けない声に興醒めし、さすがに馬鹿馬鹿しくなってきて俺はタオルから顔を離した。
その時、俺は目の前が真っ暗になった。
教室の入り口のところで、誰かが佇んでおり、じっと俺の方を見ていたのだ。
それは、安藤だった。
俺はその姿を見つけた瞬間、当然ながら何も考えられなくなった。彼女の表情は凍り付いており、嫌悪感に満ちていた。
安藤は俺と目があった瞬間、その身をぶるっと震わせて固まってしまった。
俺は必死に考えた。何とか言い訳出来ないかと。せっかく上げた好感度を何とか下げないでいられないかと。苦し紛れにでも、とにかく何か言わなければ。
「あ、タオル、忘れてたよ」
そう言って俺は、手に持っていたタオルを差し出した。その瞬間、拒否感を全面に押し出した表情を浮かべた安藤はふるふると首を横に振って走り去った。
廊下を何のためらいもなく走っていく足音と、彼女の泣き声混じりの悲鳴が、教室に一人佇む俺の耳にいつまでも残っていた。
俺の本気の恋は、こうして終わりを告げたのだった。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
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泣いて喜びます。