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9、香を運ぶ影

 御前の騒擾がいったん鎮まり、楽が再び調え直される頃には、庭の闇はいよいよ深くなっていた。柱の影は濃く伸び、灯の輪は小さくすぼむ。焔は式の糸を握ったまま、回廊の端で足を止める。


「追う。――影が運ぶ先だ」


 糸の先を走る紙の薄身が、灯ごとに速度を変える。人の衣の裾が揺れて起こすさざめき、暖められた油の息、廊の角でよどむ冷気。それらが織る見えない川筋を拾うように、式は渡殿をくぐり、裏手の細い通い路へ滑っていった。


 和登は遅れず続き、鼻腔の奥で層を嗅ぎ分ける。荷葉の甘い湿りは薄くなり、代わって黒方の低い重さが、床板の隙からじわりと上がっていた。さっきの箱――あれと同じ層だ、と直覚する。


 式がぴたりと止まった。止まった先には、御厩脇の物置へ続く狭い出入口。薄闇の中で、人影がひとつ、肩に小さな漆の箱を二つ、紐で括って提げている。身なりは端折った直衣に、色の落ちた帯。腰の低い歩き方。近衛の者ではない。


 朔麻呂が前に出て、短く名乗り、遮った。


「止まれ。何を運ぶ」


 影の男は驚いて足を止め、慌てて膝をついた。


「ぞ、雑色の久米と申しまする。内裏の雑用を……これは、女房方より預かった薫物の箱にて……」


 焔は膝を折らず、一歩分だけ近づいた。灯の輪が男の袖口をかすめる。布目に、白ではなく灰を帯びたきらめきが、砂のように光った。


「その手を出せ」


 男の指先――爪の縁に、ごく薄く膠が付いている。けれど、付く場所が違う。封を作る側の手ではなく、封を撫でて確かめた者の手の付き方だった。焔は短く鼻で笑う。


「開けてはおらぬな。――良い。中身はここで改める」


 朔麻呂が箱を受け取り、紐を解く。和登はそっと身を寄せ、ふたの裏に鼻を近づけた。荷葉が表の層を作り、その下に黒方が薄く潜む。黒方は、本来なら夜に静けさを添える香。だがここでは、湿りを底へ引く重りとして使われている。香の組み合わせを知る手の仕事だ。


 焔は片方の箱から、薄い紙片を抜き出した。紙は細長く、柱の隙に差してあったものと同じ手だ。細い女筆。墨はわずかに薄い。急いでいる。


「読めるか」


 朔麻呂が問うと、焔は紙を傾け、灯の角度で線の癖を視る。


「読める。――だが、読むほどのことでもない」


 紙には結句が一つだけ、前の二枚と並びを揃えるように置かれていた。


 誰が袖の目


 和登の視界に、冷たいものが落ちる。目だ。見るだけで入る段。さきほどの「影」の紙と対をなす。


「問う。おまえはどこでこれを受け取った」


 焔の問いに、雑色の久米は浅く頷いた。


「いつも、縫殿寮ぬいとのりょうの裏手にて。井戸のそばに箱が置いてあり、名のない札が添えられておりまする。届け先は……この箱の内の紙に」

「誰が置く」

「顔は見ておりませぬ。帷を深く被った、ひとの影を一度だけ……。それきり、毎度、申の刻過ぎに箱がひとつ、ふたつ」


 朔麻呂が鼻を鳴らす。


「女房か。どこの者だ」

内侍所ないしどころとは限らぬ」


 焔が抑えた声で返す。


「縫殿の裏だ。衣と香の流れを知る者なら、女でも男でも着けられる影だ」


 和登は久米の袖に目を落とす。粉の乗り方が偏っている。

 灯の真下で受け取った者ではない。廊の影を選び、風の逆を読めぬ者の袖だ。つまり、香の“流し方”を知らぬ手。運びの影であって、調える手ではない。


「配り先は、誰に」

「こちらに……」


 箱の底から、二つ折りの薄い紙が出てきた。細い筆で、行先の名が記されている。ひとつは歌所の司の一人、もうひとつは右近衛の若い舎人。前の二人と同じく、「袖の連なり」に沿った名だ。女房の衣に触れ、出入りする者。香が渡る筋を選んだ名付けだった。


「つじつまは合う」


朔麻呂が扇を軽く叩く。


「だが、こいつが運び人として、二人の場に近かったのは確かだ」


 和登は、久米の目の揺れを見た。怯えている。だが、どこかで納得もしている。自分が“香を運ぶ影”だったと、今はじめて気づいた顔だ。


「おまえは黒幕ではない」


 焔が断じた。朔麻呂が横目を寄越す。


「おい、言い切れるのか?」

「言い切れる。筆が違う。箱の折りも違う。封の膠の練りも違う。何より、歌が読めない手だ」


 焔は紙片の筆致を和登へ示す。わずかに筆圧の抜ける位置が、女房の手に多い癖。雁皮を引いた唐紙の選び方も、書き慣れた者の癖。下級役人では手が出ぬ料紙だ。しかも、結句の置き方――「香」「夢」「影」「目」と、雅の遊びを踏む知と悪意。運ぶ手と詠む手は、別だ。


「ただし――影は役に立つ」


 焔は久米を見下ろした。


「これからも、その箱を受けよ。だが、道を少し変える。回廊の灯の下を敢えて通れ。影の筋を乱し、運ばれる粉を灯で焼く。行先の名は、我々が書き換える」


 久米の喉が鳴った。


「わ、わたしなどが……」

「おまえにしかできぬ。いつもと同じ足の合で、同じ時間に、同じように。――違うのは、袖に仕込む“輪”だけだ」


 和登がすぐに理解し、頷いた。さきほど帷の前で使った糸の輪を、運びの袖にも仕込むのだ。袖口と脇の縫目の間に小さな囲いを置き、粉が袖へ入る前に折る。香が焼ける匂いで気取られぬよう、輪に白檀を細く沁み込ませればよい。黒方の層は白檀でわずかに鈍る。


「朔麻呂」


 焔が視線だけで呼ぶ。


「検非違使の名で、縫殿の裏手へ人を潜ませろ。井戸の影に、灯をひとつ増やす。置きに来る影の高さと歩幅を見る」

「承知した」


 朔麻呂は短く答え、手勢に合図を飛ばした。足音が闇の中へ散る。


 和登は箱の内をもう一度改めた。底板の裏に、細い紙片が一枚、貼られている。焔が爪先で角を起こし、そっと剥いだ。そこには、歌ではなく、無意味な文字の連なり――に見えたが、焔は一目で首を傾けた。


「……連ね方が、変だな」


 和登も覗き込む。縦に読むと、取り留めない文字列。だが、左端の三文字ずつを拾うと、「東・橋・後」。地の名だ。さらに右端を拾うと「卯・三・刻」。時の合図。


「置き場の変え時を、知らせている」


 焔が低く言った。


「詠み手は、運びの影を使い捨てない。道も、置き場も、時も、歌のように織ってくる。――面倒だが、好都合でもある」

「好都合?」

「歌は、詠み手の癖を隠せない。置き場の選び方、時の合図の切り方、結句の運び。全部を重ねれば、心の向きが出る」


 和登は頷いた。香の層にも癖がある。荷葉の立ち上がり、黒方の沈み、その混ぜ目の薄いにごり。唐で見た調合の手にも、それぞれの癖があった。詠み手の癖と、香の手の癖。二つが一つのものなら、そこから辿れる。


 久米が唇を噛み、恐る恐る顔を上げた。


「わ、わたしは……どうすれば」

「いつも通りに運べ。行先は変える。――おまえの袖には輪を仕込む。鼻が辛ければ、これを少し」


 和登は小さな包みを取り出し、薄荷の粉をわずかに渡した。久米は両手で受け取り、深く頭を下げる。震えは止まらないが、眼の焦点は戻っていた。


「焔」


 朔麻呂が戻ってきた。手勢を散らしたらしい。


「縫殿の裏へ潜らせた。灯も用意する。――だが、置きに来る影が本当に女房なら、捕えても言わぬぞ。女房は主の名を守る」

「言わせる必要はない」


 焔は首を振った。


「髪が語る。紙が語る。香が語る。歌が語る。人の口は、最後だ」


 彼は紙片と箱を再び括り、久米の肩に戻した。和登は久米の袖口に、糸の輪をひとつ、目立たぬよう縫い添えた。白檀の細い息が、輪にしみる。


「行け。――いつも通りに」


 久米はおずおずと立ち上がり、いつも通りの歩幅で闇の中へ消えていった。式は影に寄り添い、灯の筋を拾いながらついていく。糸はふたたび、焔の指へ細く張られた。


 和登は、胸の奥に冷たいものがすうっと入ってくるのを感じた。香は鼻から、夢は心から、影は足下から、声は息から、目は見るだけで入ってくる。すべてが輪になる前に、芯を抜く――詠み手を見つけるしかない。


和歌所わかどころとばりの内、か」


 焔がぽつりと言った。朔麻呂が眉を上げる。


「勘か」

「癖だ。結句の運びが、遊び場の癖に似ている。香の合わせも、誰に見せるかを知っている手だ。――今夜の“東橋の後、卯三刻”を押さえる」


 朔麻呂は短く頷き、また人を散らす。和登は式の糸を握る焔の指先を見た。白く、細い。だが、その指が引くのは、人の心の糸だ。


 池の面を渡る風が、一度だけ方向を変えた。灯影が揺れ、柱の影が細く伸びる。遠くで、笛の音がまたひとつ結ばれた。


 香を運ぶ影は、ひとりの下級の男では終わらない。袖は連なり、歌は連なり、匂いは人から人へ移っていく。――その連なりの端を、焔は掴みかけている。

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