8、狙われた袖
内裏の庭は浅い闇に沈み、池の面だけがわずかな月光を返していた。
回廊の柱と柱の間を、灯が細くつないでいる。
遠く、笛の音が生まれ、風に乗ってほどけ、また結ばれる。
まだ序の調べにすぎぬのに、人の心をほどくには十分な柔らかさを帯びていた。
右近衛の詰所から引き返した三人は、検非違使の札と陰陽寮の印を示しながら、御所の内へと滑り込んでいった。
先頭に立つ朔麻呂は、通り口ごとに短く名乗って門を開かせる。
焔は黙して歩きながらも、歩幅がいつもより速い。
和登はその横顔を見て、ただならぬ急ぎを感じ取った。
「標的は、袖だ」
焔は振り返りもせず言った。低い声なのに、不思議と耳に澄んで届く。
「袖?」
朔麻呂が訝しむ。
「“誰が袖”を呼び水にした以上、次は袖そのものが媒介になる。袖から袖へ移り、最後に名を秘す者へ至る」
和登は鼻をわずかに開いた。白檀の乾きの下に、別の影のような層が潜む。荷葉の湿りに似たその匂いは、糸のように細く、確かに回廊の内側へ流れ込んでいる。楽の音と人々の息が揺らす気流に絡まり、袖口の縫目へと潜り込もうとしていた。
「管弦の場は清涼殿の東、中宮さまの御前だ」
朔麻呂が低く告げる。
「衛士を厚くしているが……袖までは守れまい」
「女人の側に衛士が侍るのは……無理でしょうね」
「袖は装いの顔。手を出されれば騒ぎになる。だからこそ狙う」
焔は懐から木片を取り出した。爪ほどの札に、細い呪文が刻まれている。三枚を指で弾くと、空気がささくれ、紙ほどの薄さのものがふわりと闇から起き上がった。翅のない蝶のように、灯影に沿って滑り、柱から柱へと移っていく。
「式を放った。香の筋を拾わせる。和登、おまえは後ろで層を見ろ」
和登は頷き、嗅覚を澄ませた。匂いは音に似る。高低、強弱、和声も雑音もある。荷葉の湿りは水面に落ちる小雨の輪。幾つも交じり、袖口、袖口へ吸い寄せられていた。
「……袖が歩いている」
和登の口をついた呟きに、朔麻呂が怪訝そうに眉を寄せた。
「どういう意味だ」
「袖から袖へ、香が移っている。媒介が連鎖しているのです」
その時、式のひとつが急に速度を上げた。焔が指をわずかに動かすと、式は灯の下を通り、帷の端をなぞって消える。
「帷の内だ」
焔が短く言った。
彼は袖の中から細い糸を取り出した。米粒ほどの札を三つ房のように結んである。焔はそれを和登に渡した。
「おまえの手で囲え。縫目には触れるな」
和登は膝をつき、帷の裾へ糸を差し入れた。袖の匂いが近い。荷葉の甘さは水際の光のようで、触れれば沈む。息を整え、糸で輪を作り、袖口と床の間を囲った。
そのとき、中から琵琶の音がふっと狂った。和が乱れる。
「“声”が来る」焔の声が硬く響いた。
和登の耳にも、笛と笙の上に薄い声が降っているのが分かった。歌とは誰も気づかぬほど微かだが、人の呼吸の拍に合わせ、高く低く揺れる。吸うたびに胸を縛り、吐くたびに緩む――息を弄ぶ声だ。
「呼吸が壊される……」
和登は懐から薄荷と龍脳を和えた香を取り出し、指にとって鼻下に塗った。
朔麻呂にも手渡す。
「これを。吸いすぎると眠るが、今は逆に醒める」
普段なら皮肉を返す朔麻呂も、無言で従った。
帷の内で膝の崩れる音。囲いの輪の外、影が袖口に伸びてくる。
「札を」
焔が低く言う。
和登は三つ目の小札を輪の外に置いた。札が息を吸い、影の縁に触れた瞬間、かすかな火花が散った。
帷の内から女の悲鳴。楽は途切れ、ざわめきが広がる。朔麻呂が駆け寄ろうとするのを焔が制し、「まだだ。袖を確かめる」と冷たく言った。
蒼白な女房が出てくる。焔が袖口を持ち上げると、布目に灰色の粉が光った。荷葉を乾かし、影に乗せるために調えたものだ。
「届く前に、輪で折れた」
焔が呟く。
中では琵琶の若い楽人が崩れていた。瞳は焦点を失い、呼吸が浅く乱れている。和登は醒めの香を焚き、拍を数えて呼吸を導いた。三拍吸って五拍吐く。やがて胸が整い、瞳に光が戻る。
「間に合ったな」
朔麻呂が安堵の声を漏らす。
焔は琵琶の胴を裏返し、縁に白い粉を見つけた。
「声は音でもある。楽器の響きに粉を仕込み、音波で舞い上がらせていた」
和登は息を呑んだ。
「影と声を重ねた……」
焔は頷いた。
「段を急いでいる。今夜もう一つ来る。次は“目”だ」
彼が柱の隙間から紙片を抜くと、そこに記されていた。
誰が袖の影
墨が灯の角で蠢き、和登は視界が暗くなるのを感じた。
「見るな」
焔が札で断ち切り、ただの文字に戻す。
「見ることで入る歌だ。眼裏に影を植える。今なら折れるが……夜が更けるほど危うい」
女房は震えながら告げた。「贈り物でございました。箱書きに“荷葉”と……」
従者が運んできた箱には粉の層が残っていた。焔は舌でわずかに確かめて吐き捨てる。
「荷葉に似せ、黒方を潜ませてある」
「黒方……夜の香」
和登は小声で言った。
「術者は薫物合わせに通じている。内からの手か、外からの通じか」
朔麻呂が苦々しく呟いた。
「どちらでも構わぬ。線は詰められる」
焔は即答した。
香は鼻を奪い、夢は心を縛り、影は足下を忍び、声は息を乱し、次は目を奪う。五つが輪になる前に、断たねばならない。
「袖は一枚ではない。贈り贈られ、連なりを成す。標的は人でなく“連なり”そのものだ」焔は言った。
「断つには、歌の芯を抜くしかない」
「歌の芯?」
和登が問う。
「詠み手だ」
池に月が差し、影が揺れる。焔の目は遠くを見ていた。和登の胸に冷えと熱が同時に走る。朔麻呂は扇を握りしめ、静かに頷いた。
「詠み手を見つけ、連なりを断つ。今夜のうちに」