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7、和歌は告げる

 巻紙の白は、灯の揺れに合わせてかすかに波打っていた。

 焔は二首の和歌を並べて卓に置くと、筆の先でそれぞれの結句——最後の五文字を、静かに円で囲った。


 誰が袖の香。

 誰が袖の夢。


「変わっているのは、ここだけだ」


 淡々とした声が、紙の上に薄い影を落とす。

 和登は隣に腰を寄せ、墨の匂いと袖に残った甘い香の残滓を同時に吸い込んだ。胸の奥が、重く鳴る。


「このわずかな違いに、意味があるのか」


 朔麻呂が問う。扇は閉じられたまま、指は硬く添えられている。


「たった一文字で」

「一文字で足りる。呪いとは、そういうものだ」


 焔は筆先を紙に触れぬように近づけ、行を区切る。

 なにしおはば/匂ふをしるべ/おく露の/跡も紅きは/誰が袖の——。

 最後の名詞だけが、すげ替えられている。


「“香”は媒介だ。袖につけ、相を移す。だから第一の死は、女房の匂いを借りた」


 焔は目を上げずに言う。


「“夢”は縛りだ。寝所で、魂を留める。だから第二は、宿直とのいの部屋で起きた」


 和登は、ふと最初の歌を思い出す。

 ——名を知るなら匂いを道しるべに。露の跡まで紅に染める袖は、誰の袖の香か。

 恋の歌に読み替えられる表の意味は、仕掛けの蓋だった。蓋を外せば、底から別の形が現れる。


「順序だ」


 焔がふっと息を落とす。


「結句は、術の“段”を告げている。香——夢——次に来るのは“影”か“声”だ」

「影か、声」


 朔麻呂が繰り返し、顔をしかめる。


「それは、何を示す」

「“影”ならまなこを奪う段、“声”なら耳を塞ぐ段。五官を一つずつ封じ、最後に“心”を沈める」


 焔は指で、五本の線を卓の端に引いた。


「香(鼻)→夢(心)と来た。順番としては乱れているが、意図は“封じ”だ。五つで一巡する」


 和登は思わず身を乗り出した。


「五つ……つまり、あと三度、同じような死が続くということか」

「続けさせれば、だ」


 焔が低く笑った。


「術者は、歌を一首で済ませたわけではない。次の紙もあるはずだ。結句が“影”か“声”に変わったものが」

「見つかっていないだけ、ということだな」


 朔麻呂の声が苦くなる。


「では、その“影”なり“声”なりが指す“次”は、どこだ」


 焔は紙から視線を上げ、和登の方を見た。


「君、最初の現場の香——あれを嗅いだな」

「ああ」


 和登は短く頷く。鼻の奥に、まだその甘さが残っている気がした。


「梅花を主に、わずかに異国の層が重なる。あれは意図的に作られた匂いだ」

「近いのは“荷葉かよう”だ」


 焔は言う。


「宮中でよく調えられる薫物の銘のひとつ。蓮の葉の静けさを写すといわれるが、その底に潜む湿りを術者は利用したのだ」


「では“夢”は」


 朔麻呂が顎を引く。


「寝殿、帷、夜の床——場所の示唆か」

「そうだ。薫物の銘に仮託した一首で、段を進めている」

「では“影”なら、灯影か」


 朔麻呂が扇で卓を軽く叩く。


「廊の灯、門の灯。宿直の交替、宵と暁。狙われるのは——」

「右近衛の宿直衆だ」


 焔は即答した。


「今夜、右近衛の詰所は交替が遅れる。さきほどの騒ぎで。灯影が伸びる。影は長いほど、術者に都合がいい」


 和登は思わず息を呑んだ。

 香——女房。夢——宿直。影——近衛。

 ひとつずつ、袖から離れ、より硬い場所へ、より権の近くへ。


「時間がない」


 焔は立ち上がり、紐に括り付けた札を手早く胸に差した。


「多聞」

「はいっつ!」


 戸口に控えていた童子が飛び出る。


「右近衛の詰所へ走れ。灯を増やし、灯心を太くしろ。香炉は使うな。焚くなら白檀だけ。甘い香は禁ずると伝えろ」

「はいはい!」

「それから、女房達の間に“荷葉”を常用している家がないか、洗い直せ。贈り物の記録、箱書き、包み紙の出入りまでだ」

「わ、わかりましたぁ!」


 多聞が駆け去る音が、廊下の向こうへ吸い込まれていく。

 焔は和登に向き直った。


「君は“夢縛ゆめしばり”のあわせを準備しろ。心を揺らす香——麝香や龍脳は避け、醒めるものを」

「醒める香なら……薄荷か、蘭麝の配合を弱く」


 和登は即座に答え、包に手を伸ばす。唐で買い求めた香材が、紙の間に眠っている。


「ただ、あれは〝香殺〟の層が厚い。嗅ぎ分けの段で弾くのは難しい」


「弾けなくても、遅らせるだけでいい」


 焔は頷く。


「夢に落ちるまでの呼吸を一息でも伸ばせば、札が間に合う」


 朔麻呂が腕を組み、短く息を吐いた。


「おまえたちの話は、いつ聞いても気が滅入る。だが、他に道はないな。……右近衛へ急ぐ。俺は検非違使の名で通行を開けよう」


 三人はほぼ同時に立ち上がった。

 外に出ると、夜はさらに濃くなっている。灯の数はさきほどと変わらないのに、闇の量だけが増えたように見えた。


 右近衛の詰所は、宮城の北寄り、廊の角を二つ折れた先にある。

 近づくにつれ、足元の影が長く伸び、灯と灯のあいだに黒いが深くなる。

 その手前で、焔がふと立ち止まった。


「和登。匂いはどうだ」

「……甘さが薄い。いい傾向だ。多聞が伝えた通り、香炉は落とされている」


 和登は鼻で短く吸い、空気の層を嗅ぎ分ける。

 白檀の乾いた香りが、薄く風に乗るだけだ。

 だが、別の層がある。もっと低い、床の近くを這うような、重い影のような気配——。


「待て」


 和登は杖で一歩を留めた。


「床下から上がってくる。……香、いや、これ、影だ」

「影に香を混ぜたな」


 焔の目が細く光る。


「灯影は生き物だ。伸び、揺れ、溶ける。その身に毒を絡めれば、影とともに人へ忍ぶ」


 詰所の戸は半ば開き、内には宿直が二人、机にもたれて書を繙いていた。

 灯の火は控えめで、油は少ない。灯心は太くされた形跡があったが、影は逆に濃くなっている。


「灯を増やせ!」


 朔麻呂が短く怒鳴った。

 宿直のひとりが驚いて立ち上がる。

 その拍子に、灯の火がふっと揺れ、床に落ちた影が大きく伸びた。

 影の端が、紙の上を滑り、袖口へ触れる——。


「吸うな!」


 焔が袖を払って飛び込み、札を一枚、影の縁に叩きつけた。

 ぱしり、と乾いた音。札の墨が、火の色を帯びて一瞬だけ明るむ。

 和登は同時に、用意していた醒めの香を、掌に塗り口元へ添えた。


「息を刻め。長く吐け。……そうだ」


 宿直の男の瞳が、次第に焦点を取り戻す。

 肩が大きく上下し、喉がひゅうと鳴って、やがて落ち着いていった。


「危うかったな」


 朔麻呂が扇で汗を拭い、息をつく。


「影で運ぶなど、聞いたことがない」


「術者は、段を進めている」


 焔は札をもう一枚、灯の台座に貼り付けた。


「“影”が来た。次は“声”だ」

「声……」


 和登は思わず周囲を見回す。

 廊の向こう、夜警の足音。遠くの笑い声。ふと、耳の奥が自分の血の音を拾う。

 声は、いちばん紛れやすく、いちばん伝わりやすい。

 だからこそ、もっとも危うい。


「残された時間は少ない」


 焔は短く言い切った。


「術者は“段”を急いでいる。香、夢、影と来た。今夜のうちに、もう一段、仕掛けるつもりだ。声は——宴だ。歌だ。笛と琵琶の音だ」


「宴……今夜、内裏では?」


 朔麻呂が息を呑む。


「中宮さまの御前で、管弦があるはずだ。近衛が動けば、検非違使の目は外へ向く。内は手薄になる」


「行くぞ」


 焔は踵を返した。

 和登もそれに続き、朔麻呂が道を開ける。


 夜の空気は、さっきよりも軽くなったはずなのに、身体にまとわりつく重みは増している。

 心臓の拍が足音に重なり、灯の列が後ろへ流れる。


 歌が始まる前に。声が香に変わる前に。

 和歌は、次を告げている。


 終わりではない。——始まりが、こちらに向かってくるのだ。


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