5、唐より来た呪い
屋敷を出ると、夕闇はすでに濃く沈み、空の端にはまだわずかな朱が滲んでいた。
その朱も、京の屋根と垣の向こうに吸い込まれるように失せていく。
西の方角では、暮れ残った光がかすかに瓦の端を照らし、細い稜線を描いていた。
道の端に等間隔で置かれた灯籠が、頼りない光を吐き出しては、夜気の中でゆらゆらと揺れている。
灯心の炎は小さく、歩く足音や衣擦れが近づくたび、びくりと怯えたように身を縮めた。
軒先の風鈴が時おり鳴り、音は涼やかだが、その背後に潜む空気は湿って重い。
夏の夜が完全に訪れる前の、境目の匂いがした。
焔は先を歩き、歩調を乱さぬまま袖に残った香を鼻先へ運んだ。
白い吐息がわずかに香煙を纏い、その横顔に翳を落とす。
その動作は、確かめるというよりも、記憶の奥底にある何かを呼び出すようでもあった。
「やはり——唐の文献にあった調合法と一致している」
淡々とした言葉が、夜道の静けさに吸い込まれた。
「唐?」
朔麻呂が背後から問う。声は低く抑えられていたが、その中に驚きと警戒が混じっていた。
歩きながらも扇を手にしているが、その扇は動かず、視線は焔の背中に釘付けになっている。
「“香殺”——香によって人を害する術だ」
焔の声は、まるで書物を読むかのように平板だが、ひとつひとつの言葉は鋭く際立っていた。
「唐では、香は単なる嗜みではない。薬とも毒ともなり、時に病や死をもたらす器として使われた。紅花と蘇枋に、ある樹皮の粉を混ぜる。その粉は皮膚から毒を染み込ませ、やがて血を巡り、心臓を止める」
言葉の終わりに、焔は袖を下ろし、前を向いたまま黙った。
彼の沈黙が、かえって言葉の毒を深く染み込ませる。
和登の耳に、その説明はあまりにも生々しく響いた。
そして思い出す。
唐の喧噪の中、ふいに訪れた不自然な静寂。
市の片隅、露店が並ぶ小路の端で、香炉のそばに座ったまま動かなくなっていた若い商人。
夏の日差しの下で、白い煙がゆるやかに立ち上り、その煙の向こうに見えたのは、穏やかな顔の死者だった。
薄い衣の胸元は紅に染まり、近づくと甘やかで重い香が漂っていた。
それは花の香とも香木の香ともつかない、混ざり合った甘さで、吐き出しても肺の奥に残るような匂いだった。
顔には苦悶の色はなく、まるで眠るように目を閉じていた——だが、その皮膚の青白さと指先の冷たさは、確かに死を物語っていた。
あのときの周囲の人々の怯えた声、誰も近寄ろうとしなかった光景まで、ありありと甦る。
「あれは……事故だと思っていた」
和登は、無意識に口をついて出た言葉を途中で切った。
記憶の奥から立ち上がる香の残滓が、喉奥をかすかに締めつける。
「事故ではない」
焔が断言する。
「“香殺”は表向きの記録からは消えて久しい。だが——手順を知る者がいれば、今も作れる。唐から渡った文献は、いくつかこの京にもある」
朔麻呂が鼻を鳴らす。
「物騒な話だな。そんなものをわざわざ持ち込むやつがいるのか」
「持ち込む者は、決まって“使うため”に持ち込む」
焔は足を止め、闇を孕んだ京の夜気をひとつ吸い込んだ。
その吸い込み方は、ただ呼吸をするというより、夜そのものの匂いを探るかのようだった。
「問題は——誰が、なぜ、今それを使ったか、だ」
灯籠の影が、彼の足元を細く歪ませる。
和登は背筋に小さな寒気を覚えた。
香は、嗜みであり、贈答の礼であり、そして——時に人を殺す。
その境界は、白と黒の間にある煙のように、曖昧で、掴もうとすれば指の間から逃げていく。
風がひとすじ、通りを抜けた。
遠くで犬の吠える声が響き、すぐにやんだ。
紅花の色を思わせる夕焼けの名残は、もう空から消えていた。
闇の中で、どこかの寺の鐘が、低く、一度だけ響く。
その音は、京の夜をゆっくりと揺らしながら遠ざかっていく。
——紅の香は、まだ京のどこかで揺らめいている。
そして、その香を操る手は、今も闇の奥で静かに息を潜めていた。