4、袖に残るは甘き香
次回は明日の21:30前後です。
よろしくお願いします!
女房の名は、近江といった。
二十をいくらか過ぎたばかりの、細面の女である。
もともと色白なのだろうが、その頬は白粉を薄く置いているはずなのに、血の気が引き、紙のように蒼白だった。
膝をそろえて畳に座しているが、その両手は膝頭の上で細かく震えており、指先が時おり衣の布目を無意味にたどっている。
視線はずっと畳の目を追い、こちらと目を合わせようとする気配は微塵もない。
格子越しに落ちる夕光が、室内を淡く染めていた。
静かなはずなのに、その空気は妙にざわつき、香の匂いと緊張が混じっている。
「袖を見せてくれ」
焔の声は低く、冷えた水のように平板だった。
その声音には感情の温度を感じさせぬ硬さがあり、近江の背筋をさらに固くする。
彼女はわずかに肩を揺らし、袖口を胸元で握りしめたまま動かない。
一拍、二拍、三拍——沈黙が落ちる。
外から聞こえるのは、遠くで鳴く烏の声と、廊下を渡る風が障子を揺らす音だけだった。
朔麻呂が横から、低く短く促す。
「聞こえただろう。袖を出せ」
その声音には、職務のための厳しさと、相手を威圧する経験値が滲んでいる。
一瞬、女の肩がさらに沈み、膝の上の手の震えが強まった。
観念したように、近江はゆっくりと右袖を差し出した。
布の端は柔らかく、仕立ての良い衣で、淡い藤色が光の加減でわずかに揺れる。
だが近くに寄る前から、強い香りが鼻を打った。
焔が二指で布をつまみ、鼻先へ近づける。
その所作は淡々としているのに、まるで刃物のような無駄のなさがあった。
一瞬で、甘く濃い香がふわりと立ちのぼり、室内の空気をさらに重くする。
それは確かに梅花香に似ていたが、和登の鼻には、もっと複雑な層が感じられた。
甘さの奥に、乾いた土と強い陽を思わせる花の影が潜んでいる。
唐の市井で、異国からの香料を混ぜ込んだ香袋を嗅いだときの、あの妙な残響だった。
ただの香ではない——何かを隠し持つ香りだった。
「……強い香だな」
和登が低く呟く。
近江はその声に、びくりと小さく肩を跳ねさせた。
そして、かすれた声を吐き出すように言った。
「……これは、わたくしの香ではございません」
焔の指先が止まる。
「贈られたのか」
その問いは短く、余計な感情の起伏を一切含まない。
冷たい水滴が落ちたような声が、女の心をさらに縮こまらせる。
近江は唇をきつく噛み、視線を泳がせた。
その瞳は揺れ、端から端へと落ち着きなく動く。
怯えだけではない——口にすれば何かが崩れる、あるいは己に災いが降ると確信している者の迷いだった。
頬の下で白粉がわずかにひび割れ、その隙間から地の色がのぞく。
「近江」
朔麻呂が名を呼ぶ。
その声は低く鋭く、逃げ場を与えぬ気配を含んでいる。
障子越しの光が彼の顔の半分を影に沈め、言葉にさらに重みを加えていた。
女房は耐えきれぬように瞼を伏せ、喉を細く鳴らしてから、ようやく言葉を搾り出した。
「……あの方から頂きました。定綱さま……」
名を口にした瞬間、女の瞳の奥に怯色が広がる。
その色は、言葉の続きとともに、さらに濃くなった。
「……わたくしもきっと……呪われる」
その最後のひと言は、吐息のように小さいのに、不思議と室内の空気を重くした。
畳の上を這うように、香の残り香が衣と衣の間を漂い、耳の奥にまで沈み込んでいく。
誰も、その匂いと恐怖をすぐには拭えなかった。