3、二つ目の紅
多聞が戻ってきたのは、それから半刻ほど経った頃だった。
陽はさらに傾き、屋敷の外には湿り気を帯びた夕闇がゆっくりと降りてくる。
夕刻特有の、火を焚く匂いと土の匂いが入り交じった風が、開け放たれた戸口をくぐって流れ込む。
額に玉のような汗を浮かべた童子は、肩で息をしながら戸口に立った。
小さな背が少し揺れ、握られた数枚の紙の端は湿気と手汗でくたびれ、よれよれになっている。
「……戻りました!」
息を整える間もなく、声が張り上がる。
「香を調合できる女房、三人まで絞れました。みな、陰陽寮の近くに住んでます」
焔は返事もせず、無言で紙を受け取った。
淡々と目を走らせ、筆跡や記録の端を確かめていく。
その視線が、ある名前のところでわずかに止まった。
ほんの小さな間。だが、その沈黙には、見ている者にとっては十分すぎるほどの重みがあった。
「……ひとり、死者と縁が深い。香を贈った記録が残っている」
「おいおい、じゃあそいつが犯人ってことか?」
声を挟んだのは検非違使の男だ。
その声音には、安堵にも似た色があった。
面倒事が長引くより、さっさと結末にたどり着いてほしいという、現場の者らしい焦りと願望。
和登は香炉の近くへ歩み寄り、残り香に鼻を近づけた。
深く息を吸い込み、わずかに目を細める。
焔が先ほど言ったとおり、梅花香特有の甘やかでやわらかな香調が確かに漂っていた。
しかし——その奥に、別の花の影が微かに重なっている。
それは、記憶の奥をひっかくような感覚を呼び起こした。
唐の市井で嗅いだ、あの異国の花の匂いに似ている。
「……待て」
低く押し殺した声が、室内の空気をわずかに震わせる。
「この香、焔が言った“梅花香”に似てはいるが……花の香りが二重になっている。調合の癖が違う。おそらく——贈った女房本人の香じゃない」
「つまり、すり替えか?」
朔麻呂の扇が、ぴたりと止まる。
目が鋭く細まり、二人の顔を交互に探る。
焔は紙を折り畳み、ゆっくりと頷いた。
その指先の所作は静かだが、瞳の奥には冷たい光がひときわ強く宿っている。
「そうだ。誰かが意図的に、その女房の香を模して作った。そして、和歌と合わせて呪いに仕立てた」
「またややこしい話を……」
検非違使は、うんざりしたように息を吐く。
だがその顔には、吐き出した言葉とは裏腹の緊張があった。
呪いという言葉は、理屈を超えた寒気を呼ぶ。
否定してみせることで、恐怖から目をそらそうとする者もいる。
焔はそんな空気を意に介さず、和登へ視線を向けた。
「君はこの香の微妙な差を覚えておけ。次の現場で必ず使える……唐帰りの知恵、試させてもらうぞ」
和登はわずかに肩をすくめ、ため息を吐いた。
「勘弁してくれ……俺にはそんな能力はないってのに……」
その言葉に、焔は口の端をほんのわずかに吊り上げた。
それは嘲笑とも、わずかな期待とも取れる曖昧な笑みだった。
——そのとき。
「——焔さま!」
外から、慌てた叫び声が飛び込んできた。
戸口に駆け込んできた別の検非違使は、汗と土埃にまみれ、息を切らしている。
手に握られた巻紙は、急いできたせいで端がちぎれそうになっていた。
「もう一人……紅い死体が見つかりました!」
張り詰めた空気が、一気に冷たく引き締まる。
焔の視線がわずかに鋭さを増し、和登は杖の握りを強めた。
紅の香は、まだ都を漂っている——。