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2、紅い死体

死体は、静かに横たわっていた。

夏を待たずに熱を帯びはじめた京の空気の中で、それはまるで、絵の具のように紅かった。


現場に立つのは検非違使(けびいし)藤原朔麻呂(ふじわらのさくまろ)

中級貴族の文官家に生まれながら、筆より剣に秀でた性格を買われ、都の治安を預かる役に就いた男だ。

今日もまた、面倒な事件の匂いを嗅ぎ取って、額に汗を浮かべていた。


「……こりゃまた、面倒なもんを見ちまったな」


被害者は左近衛府(さこんえふ)の若き官吏、従六位下・橘定綱(たちばなのさだつな)

書類を整理していた部屋で倒れていたのを、女房が見つけた。

顔には苦悶の色もなく、傷も見当たらない。だがその身体は、血でもない“紅い液体”に濡れていた。


「血じゃない。これは……染料か?」


染みのにおいを嗅いだ瞬間、朔麻呂は眉をしかめた。

甘く、しかし鼻の奥を締めつけるような香り。乾いた紅花の粉と、濡れた蘇枋の木皮が混ざったときの、ねっとりとした重さがあった。

部屋の隅には、小さく折りたたまれた紙が落ちていた。

広げてみると、そこには一首の和歌。

朔麻呂はその場にしゃがみ込んだ。


「和歌だぁ?香に染まった死体に、こんなもんを添えるたァ……」


頭が痛くなってきた。物理的にも、精神的にも。

数刻後、陰陽寮に出向いた朔麻呂は、主である景道に報告を終えるや否や、声を荒げた。


「安倍殿、これはただの変死ではない。呪詛か、あるいは何か禍事の類にございます」


景道は涼しい顔で盃を置き、短く告げる。


「……ならば、“あの子”を向かわせましょう」

「またか!あの変人に任せると、死人が増えるのでは!?」

「死人が出ているから、彼を使うのです」


藤原朔麻呂は、言葉を飲み込んだ。

景道の弟、焔。あの青年陰陽師を使うということは、人の理では解けない何かが、すでに動いているという証だった。


「やあ、脳なし検非違使のお一人」

「来たか……はあぁ……」


声に朔麻呂が眉をしかめる。

焔は無言で部屋を一瞥すると、和登の方だけを見た。


「入るなら、鼻で呼吸を止めておけ。香が残っている」


和登はひとつ頷いて、杖をつきながら焔の後ろに続いた。

部屋の中は、すでに陽が落ちかけており、薄暗い。

しかしその中央に横たわるものが、赤く、異様な存在感を放っていた。


「……これが、“紅い死体”か」


和登がぼそりと呟いた。

焔は屈み込み、死体の周囲をぐるりと歩いて確認していく。


「顔に歪みはない。死因は苦痛を伴うものではない可能性が高い。心臓発作か、毒……いや」


焔は手を伸ばし、紅い液の染み込んだ衣の端を、指先で少しだけ持ち上げた。


「これは……香に使われる“紅花”と“蘇枋すおう”の染料だな。だが、何かが混じっている。妙な粘度だ」


その瞬間、多聞が声を上げた。


「あ、焔さま!香の壺、ありましたよ!」


部屋の棚の下に、小さな香炉が倒れていた。

焔がそれを受け取り、匂いを嗅ぐ。


「……なるほど。これは“梅花香”に似ているが、調合が違う。甘さが強く、後に残るよう作られている」


和登が歩み寄り、床に落ちた紙片を拾い上げた。


和登が歩み寄り、床に落ちた紙片を拾い上げた。


「これか?和歌の紙は」


焔がちらりと目を向け、手を伸ばす。

指先で紙の質と墨のにじみを確かめ、声に出して読む。


「なにしおはば匂ふをしるべおく露の跡も紅きは誰が袖の香ぞ」


和登が眉を寄せて呟いた。


「……“あなたの名を知っていれば、その香りをたどって会いに行けるのに。露に濡れ、紅に染まった袖は、いったい誰の香りなのだろう”……そんな恋の歌にも読めるな」


焔は、ほんの少し口角を上げて首を振った。


「和歌として読めばそうも取れる。だがこれは違う」

「違う?」

「“誰が袖の香”——これは“名を明かさぬ者からの呪い”という意味に取れる。“香”が媒介、“袖”は対象、“紅”は死の象徴。これは詠唱だ。呪いの術式として書かれている」


和登が眉をひそめた。


「呪いの歌か。そんなもん、聞いたこともない」

「そうだな。京では失われた……だが唐には、似たような用例があったんじゃないか?」


和登は短く息を飲んだ。


「……まさか、おまえ、唐の呪文まで読み込んでるのか」


焔は笑わなかった。ただ静かに、香の器を床に置いた。


「学びは使うためにある。それだけのことだ」


その言葉に、和登は小さく息を漏らした。


「まことに……変人なり、か」


朔麻呂が、難しい顔で立ち上がった。


「じゃあこれは、誰かがこの男を“名も告げずに呪った”ってことか?」

「可能性は高い。問題は、“なぜ”今それを使ったか、だ」


焔は立ち上がり、部屋の外に視線を向けた。


「……多聞。犠牲者の交友関係と、香を調合できる女房の名を洗え」

「へいへい……俺ばっかこき使いやがって……」


ぶつぶつ言いながらも、多聞は走っていった。

そして焔は、和登の方を見た。


「君の嗅覚と目——次の現場で使えるか、確認する必要がある」

「……俺は犬か?」

「違う。犬の方が、君より従順だ」


次の更新は明日の21:30予定です!

よろしくお願いします♪

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