番外編
ある少年は、いつも下を向いて歩いていた。
誰かの視線が怖い。 誰かの笑い声が、全部自分に向けられている気がする。
だから目を合わせない。耳も塞ぐ。 教室でも、廊下でも、帰り道でも、地面だけを見ていた。
靴のつま先ばかりを見て歩く毎日。
……今日も、そんな日だった。
校門を出て、人気のない住宅街を歩いていたとき。
視界の中に、知らない靴が現れた。
ぴたりと、目の前に。
驚いて立ち止まり、恐る恐る顔を上げる。
そこにいたのは、白いコートを着た女性だった。
歳はわからない。 それなのに、どこか懐かしくて、見覚えのあるような、不思議な雰囲気。
その人は、少年を見下ろしながら、眉をひそめた。
お姉さん「……話が違うじゃないか、少年」
僕「……え?」
ぽつりとそう言った彼女は、無言で指を伸ばし――
ぴしん。
少年の額を、指で軽く弾いた。
僕「っ……」
思わず目をつぶる。少しだけ、涙がにじんだ。
……そして、もう一度、目を開けたときには。
誰もいなかった。
目の前にあった白い靴も、コートの裾も、もうどこにも見当たらなかった。
次の日、教室で、また誰かが笑っていた。
いつもなら――それだけで息苦しくなったはずなのに。
ふと、少年は、顔を上げてみた。
ほんの少しだけ、天井の方を見るように。
……不思議だった。
笑い声は、昨日までと変わらないはずなのに。 なぜか、自分を笑っているようには感じなかった。
肩の力が、少し抜けた。
耳に入ってくる音が、少し柔らかくなった。
その日の帰り道。
空を見ながら歩いてみた。 見上げた電線には鳥がとまり、夕焼けがにじんでいた。
僕(……たぶん、僕は、少しだけ間違えてた)
誰も、自分を笑ってなどいなかったのかもしれない。
そんなふうに思えるくらいには、今日の世界は優しかった。
だから少年は、そっと心の中でつぶやいた。
僕「……ありがとう、お姉さん」
名前も知らない、顔も覚えていない誰か。
だけど、彼女が指で弾いた“その痛み”だけは、たしかにここにある。
そしてそれが、世界との距離を、ほんの少し変えてくれた。
今日は、午前中までは、なんでもない日だった。
授業中、先生に指された。 答えた内容が間違っていた。それだけだった。
教室には誰の笑い声もなかったのに、なぜか胸がざわついた。
僕(ああ、また……)
ざわざわした音が頭の中で広がる。
僕「だから僕はダメなんだ」
声に出さずに、そう思った。
気づけば、また視線は下がっていた。
放課後、ランドセルを背負って家路を歩く。
空は穏やかだった。でも僕の心は、くぐもったままだった。
そんな時だった。
ふと、見慣れない公園が目に入った。
今まで通ったことがないはずの道に、ぽつんと広がる小さな広場。
そこで、白いコートの人がベンチに座っていた。
目が合った瞬間、彼女ははっきりと顔をしかめた。
お姉さん「……また君か。いや、また“君を”だね」
お姉さんはため息をひとつ吐いて、立ち上がる。
足早にこちらに近づいてきて、ふいに僕の手を掴んだ。
お姉さん「今回は世話が焼ける所じゃないぞ、少年」
そしてそのまま、公園の端にあるベンチに、僕を座らせた。
隣に座るお姉さんは、腕を組み、何かをじっと考えているようだった。
やがて、静かに言った。
お姉さん「君が間違ったからって、世界の構造が崩壊するわけじゃない。 先生は君の全人格を否定したわけでもない」
彼女の声は、優しいけれど、少し怒っているようだった。
お姉さん「なのに、どうして君は“自分が悪い”という答えを急いで選ぶんだ? 間違えたときに一番最初に出すべき言葉は、“ごめんなさい”でも“僕はダメだ”でもない」
僕は、そっと彼女の顔を見上げた。
お姉さんは、ほんの少し笑って、こう言った。
お姉さん「“あれ? じゃあ、どうすればいいの?”だよ、少年」
僕は、それを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
……そんな言葉、思いつきもしなかった。
「正しさ」は、すぐに覚えられない。 「間違い」は、すぐに消せない。
でも、「次はどうしようか」は、いつでも考えていい。
彼女は、ベンチから立ち上がり、背伸びをした。
お姉さん「……さて。これで少しは楽になったかね?」
僕「うん。……いや、うーん……ちょっと」
曖昧に答えると、お姉さんはふっと笑って、僕の額に指を伸ばした。
お姉さん「……進捗、微妙」
僕「いてっ!」
また額をぴしりと弾かれた。
けれど、不思議と痛くなかった。
その日の帰り道。
また地面を見て歩く自分に気づいた。 けれど、今度は――ふっと視線を持ち上げてみた。
「どうすればいいか」はまだ分からないけれど、
「分かりたい」と思えたから。
それだけで、今日はもう十分だった。
白いベンチのある公園を振り返ると、もう誰もいなかった。
けれど風が吹いた。
どこか懐かしい、あの旅の時と同じ風が。
まだまだ、僕は君の世話を焼き続けることになりそうだよ。
そんな声が聞こえた気がした。