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変化

翌朝、なんとなく重い体を引きずって、学校に行った。


昨日と同じ教室、同じ顔ぶれ。けれど――ほんの少し、違って見えた。


窓から差す光がやけに明るい。教室のざわめきが、少しだけ音楽みたいに聞こえる。廊下を走る誰かの笑い声に、思わず口元がゆるむ。


理由はわからなかった。ただ、ひとつだけ確かだった。


――ほんの少しだけ、楽しいかもしれないって、思ってしまった。


その感情に自分でも驚いて、思わず窓の外を見た。

青空の向こうに、あの白いコートの背中がちらりと浮かんだ気がした。


気のせいだろう。でも、もし本当にいたのなら。


僕「……やっぱ、変な人だな」


そう呟いて、椅子に腰を下ろした。

今日という一日が、少しだけ違って見える気がした。


学校に行きはじめて、三日が経った。


初日は少し楽しかった。二日目はまあまあだった。三日目は、朝起きるのがひどく億劫で、教室に入った瞬間に「やっぱりだめだ」と思った。何かが変わりそうな気がしていたけど、気のせいだったのかもしれない。自分の中にある空洞が、またじわじわと広がっていくのがわかった。


四日目の朝。制服は着たけど、玄関を出たあと、右には向かわなかった。


代わりに左――学校とは反対方向、商店街を抜けて人気のない川沿いの道へと足が向いた。


僕(昼間に、外を歩くって、なんか悪いことしてるみたいだ)


そんなことをぼんやり考えながら、ポケットに手を突っ込み、通りの角を曲がったときだった。


お姉さん「あ」


思わず声が漏れた。

目の前、うちの玄関の前に――白いコートを着たあの人がいた。


家の鍵を取り出しているところだった彼女は、こちらに気づくと、ゆっくりと動きを止めた。そして、片眉を上げてじっと僕を見る。


その表情が、言葉じゃなく“目線”でこう語りかけてきた。


お姉さん「中学生の君が、なぜ今、昼間にここにいるのかね?」


言葉なんてひとつも交わしてないのに、心臓が跳ねた。なぜか後ろめたさでいっぱいになって、顔を背けそうになる。


が、彼女はそのまま音も立てずにこちらに近づいてくると、僕の前でぴたりと立ち止まった。


お姉さん「おや、これはこれは」


僕「……偶然だね」


お姉さん「偶然とは、なかなか都合のいい言葉だ」


そう言って彼女は、ひと呼吸おいたあと、静かに右手を上げた。


僕「ちょ、ちょっと待っ――」


ぴしっ。


僕「いった……!」


また、額を弾かれた。


お姉さん「今のは、“今だけなら逃げてもいい”の顔ではなく、“もう逃げるつもりだ”の顔だったから、ペナルティだ」


僕「ペナルティって……」


額を押さえながら抗議すると、彼女はまたあの、悪戯っぽい笑みを浮かべた。


お姉さん「まったく。少年という生き物は、気力と無気力のはざまでぐらぐら揺れるガラス細工みたいなものだな」


僕「そんな比喩聞いたことない」


お姉さん「私はよく使うよ」


そう言いながら、彼女はポケットから飴を取り出し、ひとつ僕に差し出した。


お姉さん「とりあえず、一緒に歩こうか。君がどこまで沈んだのか、聞かせてくれるかな」


何も言えずにその飴を受け取ると、彼女はくるりと踵を返し、またいつものように一歩先を歩き始めた。

その背中を見ていると、不思議と罪悪感も、気だるさも、少しだけ和らいでいく気がした。


まるで、逃げることさえも、彼女に見透かされて許されてしまったみたいだった。


彼女の後ろについて、住宅街を抜けた先の、人気のない広場にたどり着いた。


ベンチに腰を下ろすと、彼女は白い紙袋から缶ビールを取り出した。プルタブを引く音が、小さく響いた。


お姉さん「全く……昼間に外を出歩く中学生なんて……」


と、ため息まじりに呟いたその声に、説教めいた響きはまったくなかった。


少年がちらりと彼女を見ると、彼女はもう一口、喉を鳴らしていた。


僕「……え、お姉さん、飲むの?」


お姉さん「大人だからね」


僕「いつも言ってるけどさ、本当に何歳?」


お姉さん「それは、今聞いてはいけないやつだよ」


そう言って、彼女は口元だけで笑った。その笑顔に、いつもの余裕があるようでいて――どこか、ほんのわずかに影が差しているように見えた。


――昼間からビールを飲みながら、未成年の悩みに付き合ってるなんて。


缶を唇に当てながら、彼女は内心でひとつ、乾いた笑いをこぼす。


本来なら、もっとちゃんとした“支え方”があるのかもしれない。でも、私にはこれくらいしかできない。

少年の横顔を盗み見る。少し前よりも、顔色は悪くない。だけど目の奥の曇りは、まだ完全には晴れていない。


それでも、こうしてそばにいれば、彼の中で何かが少しでも揺れてくれるんじゃないか。そんな都合のいい希望を抱いてしまう自分が、少しだけ情けなかった。


お姉さん「どうせ、明日も行かないつもりだったんでしょ?」


彼女はわざと軽く言った。


僕「……うん」


少年が俯きながら答える。その声は少しだけ素直だった。


お姉さん「じゃあ、今日だけは昼間から飲む私を許したまえ。代わりに君は、明日、また学校に行ってくれたまえ」


僕「……交換条件みたいなやつ?」


お姉さん「そう。立派な契約だよ」


僕「なんの役に立つんだか」


そう呟きながらも、少年は少し笑った。


夕暮れが、町を深いオレンジ色に染めていた。

川沿いの広場を離れて、二人でゆっくりと住宅街を歩く。いつのまにか話すこともなくなっていたけれど、不思議と気まずくはなかった。沈黙はどこか心地よく、空気はほんの少しだけ甘かった。


そして、あの踏切の前で彼女は足を止めた。

カンカンカン――という音が鳴り、赤いランプが点滅する。


お姉さん「……じゃあ、少年。また明日も、頑張ったり頑張らなかったりしてくれたまえ」


彼女は微笑んで言った。そして、遮断機が下りる直前に、ふわりとその細い体を軽やかに線路の向こう側へと渡らせた。


僕が何か言おうとしたその瞬間、電車が通り過ぎた。

ゴォォ――という風圧と音が、視界を奪っていく。


数秒後。


電車が過ぎ去ったときには、彼女の背中は、もう遠くにあった。


ゆっくり歩いていく後ろ姿が、やがて角を曲がって見えなくなる。

ただ、最後の一瞬――確かに彼女は、笑顔で手を振っていた。


まるで、「ここまでの記憶だけは、ちゃんと残しておいて」とでも言うように。


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