第18話 マイナスの世界
子供たちの勉強用にと用意された一室で、羽ペンを片手に頭を悩ませるシオン。
対して教壇に立つセバスは手元の懐中時計に視線を落としている。
暫しの時間が流れ、そして……
「お時間でございます。シオン様」
「ああー! もうそんな経ってしまっていたか! 時間配分に失敗した!」
「試験は基本的にすべての問題が解けるようにはできていませんからね。自分の得意な問題、素早く解けそうな問題を見つけるスキルも必要となります」
時間終了を告げるセバスに、羽ペンを机に置くシオン。
彼らは現在、学園の試験を想定した模試を行っていた。
「魔術に関する問題なら満点を取る自信があるのだがな……なぜ、数学の問題にしたのだ?」
「満点を取られては困るからですよ。これは試験のペースを測るためのもの。難易度は高く設定した方が良いでしょう」
「それはそうかもしれんが……」
「シオン様は数学もお好きだったと記憶しておりますが?」
「僕は数学の問題を解いたときのあの快感が好みなのだ。中には美しい数式も存在するが、納得いかんものも多い。特にこの負の数という概念はなんなのだ!」
「0よりも小さい数のことですね」
「そんなことは理解している! だが、納得がいかん! マイナス1とはなんだ? 一体どういう状況を指しているのだ!?」
「私に文句を言われましても……」
「ならセバスには理解できるか!? マイケル君が買い物に行き、リンゴをマイナス1個買ってきましたと言われて納得できるか!? リンゴがマイナス1個あるってどういう状況だ!?」
「もうそういうものと諦めてください。負の数は計算上で必要になることも多いのですから」
「存在しないものをあると定義して扱うことを、お前は気持ち悪く思わないのか」
「それを言ったら魔術だって同じようなものでしょうに」
一般人からすれば魔力もまた、不可思議な存在でしかない。
あらゆる物体、エネルギーに置換でき、時には物理法則にすら作用する。
まったくもって意味が分からない無秩序、無法則の極みのような存在だ。
「魔術は良いのだよ」
「なぜです?」
「だって魔術はこう……よく分からないのが魅力ではないか。数学はなんというか最初から答えが用意されている感があるというか、きちっとしていないと気持ちが悪いのだ。分かるか? この感覚」
「さっぱり分かりませんな」
これだから魔術素人は、と溜息を零すシオン。
少しだけ師匠に似てきてしまっているのかもしれない。
「ちょっとバカ弟子。そろそろテスト終わった? ずっと待ってるんだけど」
「おお、これはアホ師匠ではないか。なんだ? 昨日の討論の続きでもしたいのか? 決着はもう着いたと思っていたのだがな」
「はあ? だから魔力性質の変換は不可能に決まってるのよ。風は風の魔力、土は土の魔力、それを変えることなんて出来っこないっての」
「それを変換するための術式があれば良いだけの話だろう」
「だーかーらー! それが理論的に作れないって言ってんの! ほんとにバカねこの弟子は!」
「自ら可能性を潰すアホな師匠に言われたくはない! 自分の魔力性質では使えない魔術も使ってみたいとは思わないのか!?」
「思う!」
「なら研究する価値はある!」
「時間の無駄よ! それより私は複合術式についてもっと深掘りを……」
「──こほん。君たち、少しいいかね?」
徐々にヒートアップする二人の元に、ウィリアムが現れる。
いや、実際は少し前からいたのだが二人はまったく気が付いていなかった。
「父上、後にしてもらっても良いですか? このアホ師匠を分からせないといけなくなりましたので」
「あんた程度に分からせられるわけないでしょひよっこが……!」
「──悪いが緊急事態でね。当主命令だ。二人ともちゃんと聞きなさい」
まるで子供のように口喧嘩を続けようとする二人にウィリアムが強い口調で命令する。
それは穏やかな彼にして非常に珍しいことだった。
「……何かあったのですか?」
「うん。どうやら隣の領主の屋敷が襲撃されたらしくてね……死人も出たそうだ」
「────っ!」
「最近、王国で問題になっている盗賊ギルド『鴉の爪』の仕業と推測されている。この土地が次の標的になる可能性も十分にあるだろう」
「そ、それなら、何か対策を取らないと……!」
「警邏の者を増やす。夜間の警戒も行う。当面の間はな。だが、それも完全な監視ではない。この屋敷を離れるという選択もあるが、二人はどうしたい?」
「え……父上はどうするのです?」
「私はもちろんこの屋敷に残る。領主が不在となれば業務に支障が出るし、何より民を見捨てて逃げるような選択肢は私にはない。オズワルドも同様だ。だが、お前たちは別だ。この屋敷に無理に残る必要はない。むしろ、何かあった時に私達の代わりとなる人間を保護しておくことには意味がある」
「何かあった時? それって……」
「……そういうことだな」
ウィリアムは明言しなかったが、つまりはウィリアムやオズワルドが死んだとき、家督を代わりに継ぐものが必要という話であった。
「……私はシオンについていくわよ。学園の入学試験まで一年を切っているんだから。まだまだ教えないといけいないことがたくさんあるもの」
「ならこの話はシオン次第、ということになるな。どうする? シオン」
「…………」
父の問いに、シオンは熟考する。
屋敷を出るか、出ないのか。
考えて考えて考えて……彼は一つの決断を下す。
「僕は……屋敷に残ります」
「そうか。だが、良いのか?」
「はい。屋敷の外が安全だという保障もないわけですし、何よりここは僕の家で、僕の家族がここに住んでいます。父上や兄上だけではありません。セバスやレウ、メイドたち全員を僕は家族だと思っています。父上の言葉を借りるなら、家族を見捨てて逃げるような選択肢は僕にはない」
「……そうか」
シオンの決断を聞いたウィリアムはどこか嬉しそうであった。
「さ、話は終わりかしら? それならさっさと複合術式の新解釈について討論するわよ」
「はい……いや、ちょっと待て。話し合うなら魔力の性質変換が先だぞ!」
先ほどまでの緊張した空気から一転、楽し気に話す二人にウィリアムは思わずほくそ笑む。
図太いというか、楽観的というか……ある意味で器が大きいのかもしれないと。




