第14話 議論は同レベルの者の間にしか生まれない
「ふぅ……」
シルフィード邸に用意された浴場。
一面に張られたお湯に浸かるモリアンは熱い吐息を漏らしていた。
貴族の屋敷というのは想像以上に居心地の良い場所だった。
ふかふかのベッド、美味しい食事、いつでも入れる大浴場。
給金も高く、何の文句もない職場と言えるだろう。
ただ……教える相手がシオンでさえなければ。
「なんで三級魔術師風情があんなに頑張っちゃうかしらね……」
実力もないくせに宮廷魔術師なんて夢を見ているシオンに、モリアンは内心で怒りすら感じていた。
この私ですら合格しなかった宮廷魔術師になろうだなんて、と。
「ま、言うだけなら自由だけどね。今日のことであいつも懲りたでしょう」
初授業でシオンにはたっぷりと現実を教えておいた。
シオンの夢がどれだけ無謀なものなのかを、懇切丁寧に。
「……はあ、ほんと、子供相手に何をやっているのよ私は」
それが八つ当たりに近い行為だったと、モリアンは自覚していた。
今年で15歳になるモリアンだが、これまでの人生で壁らしい壁にぶつかった経験は記憶になかった。
それが宮廷魔術師の試験に落ちたことで、初めて挫折を味わったのだ。
「私より魔術の扱いがうまい人なんてそうそういないのに……宮廷魔術師と言っても人を見る目はないってことなのかしらね。それか単純に嫉妬かしら?」
物覚えが良く、探求心のあるモリアンは次から次へと新しい魔術を覚えた。
友人と遊ぶ時間さえとらず、そもそもそんな友人すら作らなかった。
たった一人、知人と呼べる人物はいたが……
「もう……オズワルドがどうしてもって言うから来たのに」
4年間の学園生活で、ずっと主席争いを続けた好敵手のことを思い出す。
優秀な魔術師である彼からの依頼なら、もう少し骨がある仕事だと思っていた。
それがまさか、三級魔術師のおもりだなんて……
「……また一緒に魔術研究したかったなぁ」
図書館で偶然出会った時に交わした魔術討論。
グループワークで一緒に考えた新魔術構想。
思えばオズワルドと一緒にいるときが最も学園生活を楽しんでいた時間だった。
だが、領主を継ぐための勉学に勤しむオズワルドにそんな時間はない。
魔術は貴族の嗜みとして学んだが、本来領主に必要な学問ではないのだ。
彼と共にもう一度魔術について語ることを楽しみにしていたのだが……
──どうやら、そんな時間はもう二度と訪れないらしい。
「……次の仕事、どうしようかしら」
既にモリアンは家庭教師の仕事に対する熱意を失っていた。
肝心のシオンの心が折れてしまった以上、この仕事は続けられない。
魔術をかけたあと、言葉を失うシオンの姿をモリアンは覚えていた。
それはまるで、宮廷魔術師の試験に落ちたと知らされた直後の自分のように。
「この環境を失うのだけは残念だけど……仕方ないわよね」
名残惜しそうに湯から上がり、タオルで体を拭きいつもの服に袖を通すモリアン。
彼女が浴場を後にしたところで、彼女は待ち人の存在に気付く。
「あ、先生。お待ちしておりました」
「え? 君、なんでここに……?」
「先生を探していたのです。こちらにいらっしゃると聞いて……あ、それより見て欲しいものがあるのです!」
モリアンを出待ちしていたシオンは嬉々とした表情で紙を渡してくる。
反射的に受け取ったモリアンはその紙を見て、困惑する。
「これ……遅延発動術式の基礎理論じゃない」
「流石先生。一目で見抜きましたか」
「当然よ。それで、これが何?」
「いえ、実は前々から考えていた理論がありまして」
シオンは懐からペンを取り出すと、『微風』の魔術でそれを宙に浮かす。
「魔術の発動タイミングは術式である程度変更できますよね?」
「ええ、そうね。それがなんだっていうの?」
「いえ、発動タイミングがずらせるなら複数の魔術の効果を重ねることもできるのではないかと思いつきまして。例えば、10秒後に発動するように魔術を行使した5秒後に、さらに5秒後に発動するように調整した術式を発動すれば……」
「……最初に発動した魔術と発動タイミングが重複して、効果が加算される?」
「はい! そういうことです!」
シオンの語った方法は斬新ではあるが、既存の理論ではあった。
故に、モリアンにはその理論の問題をすぐに指摘することができた。
「あのね、大前提として複数の術式を同時に展開することはできないでしょ?」
魔術の原則として、一人の術者が同時に行使できる魔術は一つだけ。
シオンの方法を採用するなら二度の魔術行使が必要になる。
「遅延している間も術式自体は消えていないのだから、その方法は机上の空論よ」
「ええ。ですから、行使する術式は一つだけです」
「…………どういうこと?」
モリアンにはシオンの言いたいことがすぐには分からなかった。
「つまりですね、さっきの例で言うと、ひとつの術式の中に10秒後に発動する命令と5秒後に発動する命令のふたつを組み込んでおけばいいということです」
「…………っ!?」
そこまで言われてようやくモリアンは理解した。
この少年は既存の魔術式を改造して、新たな魔術式を作ろうとしているのだと。
「いやいや理論上は可能だけど、そんなこと……」
できるわけがない。
そう言いかけた言葉を、モリアンは魔術師の自覚から飲み込んだ。
不可能や無理と言った言葉は、魔術師にとって己の限界を定める敗北宣言にも等しい言葉だったから。
「……できるの? あなたに」
「分かりません。ですから手伝ってください」
シオンはきらきらと光る、純粋な瞳でモリアンを見つめていた。
まるで新しく買ってもらったおもちゃで早く遊びたくて仕方ない子供のように。
そこには先ほどまであったはずの絶望など微塵も感じられない。
たかが数時間程度の間に、シオンは絶望を受け止めたのだ。
それどころか、その絶望を乗り越えようとしている。
「……なんで?」
「え?」
「どうして三級魔術師のあなたが、そんなにも魔術に熱意を向けられるの? 今言った技法にしたって、成功したところで精々魔術の出力がちょっと向上するだけよ? それこそ一級魔術師が一夜漬けて覚えた術式にも到底かなわない。それなのになんで……?」
そう、それこそがモリアンにとって最大の疑問であった。
才能のないシオンが、どうしてここまで魔術に執着するのか。
その疑問に、シオンは少しだけ考えて……
「えーと……それって僕と何か関係あります?」
またもやモリアンの理解を超える発言をする。
「他の誰かがどれだけすごくても、それって自分には関係ないでしょう? 僕が魔術の道を志すのは、単に魔術が美しく僕にとって好ましいものだからです。自分に才能がないことも、努力したって天才には追い付けないことも、そんなことは僕には関係ない」
「…………」
シオンの返答に、モリアンは絶句する。
ただの強がりで言っているのではないと、そう分かってしまったから。
「……もちろん、他人と比較して落ち込むことはありますよ。ですが、それで魔術の美しさが損なわれるわけではない。魔術の持つ、無限の可能性が損なわれるわけでもない。ならば、魔術の探求にあたってそれらは無意味な要素です」
言い切るシオンは、そんな事より、とモリアンの驚きを一蹴する。
「もっとこの理論の可能性について話しませんか? モリアン先生の知見もぜひうかがわせていただきたい。部屋はレウ……従者に用意させていますのでぜひ!」
モリアンの手を取り、既に決定した予定とばかりに話し始めるシオン。
彼の話を聞いた後では、天才だの出来損ないだとそんなうわべでしか人を判断していなかった自分がいかに下らない思考だったかを思い知らされるようだった。
その時、モリアンの胸に何か熱いものが宿ったような気がした。
「……いいわ。気のすむまで付き合ってあげる。私もその……貴方の語る魔術理論に興味があるから」
「そうこなくては! ですね!」
「あ、でも言っておくけどちょっとだけだからね! ほんのちょこっとよ!」
ちっぽけなプライドからそう釘を刺すモリアン。
その後、実に楽しそうに魔術について話すシオンに、モリアンはかつて過ごした青春の面影を重ねてしまうだった。




