9 心の会話能力
コースの下見から合流した愛子に2枠3番になったことを知らされた。馬券は前日の夕方からオンライン販売もされるらしいが、RRCほど予備情報が無いため、当日購入が大半らしい。ちなみに関係者も所有馬の単勝のみ10万円までは購入できる。
いわば応援馬券なだが、ビッグレースではほとんどの馬主が願掛けに購入するらしい。ハヤテオウに正式なオーナーはいないが、今回は便宜上、スマイル牧場の所属馬として登録している。愛子は1万円の単勝を購入するつもりだと言う。
「10万円の馬券を買えなくてごめんなさい」
「むしろ大丈夫なんですか、1万円だって大変でしょう」
「うん。でも、泣いても笑っても明日結果が出るから。もし・・・」
「もし?」
「もしもだけど優勝を逃してフラワースマイルを引き渡すことになった場合は、6000万円が白金ファームから支払われることになっているの」
「負債額を差し引いてですよね。それだけの価値があるってことか・・・」
「だけど、フラワーはスマイルティアラと前オーナーがこの世に残してくれたうちの宝だから。あ・・・」
トラックを走らせながら語っていた愛子の口が止まってしまった。やはり前オーナーは・・・それが父なのか兄なのか、それとも・・・駿馬は要らぬ想像を打ち消して、助手席で居眠りに逃げた。
スマイル牧場に戻るとエミが表側の扉を開けて迎えてくれた。隣には男性が。
「おかえり。アイコちゃん、シュンマくん」
「ただいま。えっと、お隣の・・・」
「ああ、彼氏の翔くん。ほら、挨拶!」
「はじめまして」
「ど、どうも・・・」
「一緒に留守番してくれるって言うから。彼は調教師を目指してるの」
「よろしく(中学生で彼氏いるのか・・・)」
スマイル牧場に戻ったらやろうと思っていたことがあった。フラワースマイルとの会話だ。これまでハヤテオウだけが話せるものだと決め付けていたので、フラワースマイルには普通に馬として接していた。
4人で馬房に行き、カイバの補充と水の交換をしてから愛子は単勝馬券の購入と夕食の支度、エミは二つ年上の翔に宿題を手伝ってもらうとかで、小屋に入っていった。さて、やってみるか・・と駿馬はハヤテオウの隣にいるフラワースマイルの方を見た。
「(フラワー、聞こえるか?)」
「(あれ?私に話かけてくれたのね)」
やっぱり繋がった。ハヤテオウが隣から怪訝そうにこちらを見てくるが、お構いなしに心の意会話を続けた。
「(ハヤテのことをどう思ってるんだ?)」
「(大好きよ!大大大好き)」
「(そ、そうですか。ありがとう)」
「(なぜお礼を言うの?私の素直な気持ちよ)」
「(は、はい!)」
なんてストレートなのか・・・これが馬心というものなのか。むしろ人間がおかしいのかもしれない。まあハヤテオウを気に入ってくれててよかったが、ますます負けられない。今度はハヤテオウに向き直った。
「(ハヤテ、聞いたか?)」
「(何をだ?)」
「(フラワーとの会話だよ)」
「(聞こえてない。彼女はなんて言ったんだ?)」
「(あ、ああ。今日も良い天気ですねって)」
「(何だそりゃ)」
なるほど。フラワースマイルとの心の会話をハヤテオウは聞くことができない。おそらく逆もしかりだろう。それならレース中にハヤテオウと会話をしても他馬に聞かれることはないということ。これは大きな発見だ。
「(ハヤテ、明日のレースはよろしくな)」
「(おう、任せておけ!)」
「(フラワーは連れて行けないぞ)」
「(勝って報告する。いっぱい顔をスリスリしてもらうんだ)」
何だよ顔スリスリって・・・と言う疑問をよそに、駿馬はフラワースマイルにも再度心で声をかけると、嬉しい気持ちを抑えめにしながら小屋の入り口へと向かった。
独立レースの当日、スマイル牧場からの出走はメインの『ナンデモ電器ステークス』のハヤテオウのみだが、検量やゲートチェック、騎手の体調チェックなどで、騎手の競走馬は第一レースの前に競馬場入りしないといけない。夜明け前に軽い朝食を済ませて馬運車兼用のトラックに乗り込んだ。
勝負服を着て鞍や帽子、ゴーグルを装着した状態で体重計に乗ったら、なんとか55kg手前で針が止まった。ボクシングでいうリミットいっぱいと言うやつか。余計な重りを付けなくて良いと言う意味では理想的だ。
もちろん本格的にRRCで騎手として活動するなら、もう少し斤量の軽い馬にも乗る必要が出てくるだろうから、元の世界の常識で考えるなら、少なくともあと2キロは絞る必要があるだろう。エミと彼氏である翔がスマイル牧場で留守番。エミは後から愛子の兄である父親と一緒に応援に来ると言う。
出発前に愛子が単勝オッズを確認するとブラックアローが1.6倍の一番人気、サンクスギフトが3.4倍、ハヤテオウは12.8倍の4番人気だった。どこの馬の根とも知らないハヤテオウがこれだけ支持を集めているのは疑いなく父キングフィロソフィー、母レジェンドルビーと言う良血のなせるわざだろう。
そもそも何でこんな良血馬が2歳でRRCにも入らず独立レースに出ているのか。駿馬は自分だったら疑問を持つが、愛子も特に聞いてこないので、余計な話題を振ってもしょうがないので黙っておくことにした。「いよいよですね」と愛子がドリンクホルダーから片手に取ったコーヒを口に含んで、話変えて来る。
「はい。やるだけのことはやって来たので・・・そう言えばゲートチェックが当日にあるんですね」
「定期的に行っているRRCと違って、独立レースは色んな境遇の競走馬が集まって来るので、安全性を考えてやっているの」
「なるほど」
愛子には駿馬とハヤテオウの素性を伝えていない。言ったところで怪しまれるかもしれないし、どこかからやって来た助っ人みたいな感じで受け入れてもらえているなら無理に言う必要は無い。RRCの試験を受けて、騎手登録をするとなった時にこちらでの身分証明がどうなるかなど不安もあるが、今は目の前のレースに集中する必要がある。
「(ハヤテ、ゲートは問題なさそうか?)」
「(少し前にやったばかりだろ。一発合格だったじゃないか)」
「(ああ、そうか・・・)」
幸い、ハヤテオウの心と体はゲート試験を済ませた後のようだ。彼は利口な馬だが、最初は鞍を付けて人を乗せるのも嫌がっていたと聞くし、主戦騎手になることが決まって最初の頃はあからさまに嫌がられた。
なんの問題もなく乗せてもらえるようになったのはゲート試験の1週間ぐらい前だったと記憶しているから、その直後にハヤテオウが戻っているなら、ようやく少し信頼関係ができたぐらいと言うことになる。
ダイナーレディの教えをもとにコース取り、一度取り、流れに応じた仕掛けのパターンなど、元の世界でやって来た通りのシミュレーションはでいている。あとはハヤテオウとの呼吸が彼の事実上のデビュー戦でどこまでできるのか。そう言ったことを考えているうちに、前日目にしたイナカノ町のシルエットとイナカノ競馬場が前方に見えて来た。