7 ライバルの存在
ハヤテオウの初調教から1日経った。朝食を済ませるとハヤテオウを馬房から連れ出そうとしたが、体力が半分ぐらいしか回復してないと断られた。仕方がないので本格的なトレーニングを諦め、愛子とフラワースマイルを誘って、引き運動がてら散歩に出た。
ほのかな草の匂いが漂う中で、二人と二頭で歩いて行く。途中でチロチロと流れる小川の水を飲ませた。あと4日後にはレースがあるのか・・・元の世界では毎週2日間、多い時は1日に5頭ぐらい騎乗していた。
G1のビッグレースガある日でも、そのレースだけに乗るということはなく、何レースかに騎乗することで馬場の感触などを掴んでいたのだ。
ハヤテオウはこれまで乗ってきたどの馬よりも期待と人気を背負ってきたし、負けなしでダービーを制した・・・はずだった。冷静になって考えるほど、主戦を任されている何頭もの馬や依頼をしてくれている馬主、調教師の顔が浮かんで切なくなる。
しかし、元の世界に戻る方法があるかも分からないし、ツネったら痛い夢の世界なのかもしれない。とにかく、この世界で精一杯できることをやっていくしかないだろう。まずは目の前のビッグレースに勝ってスマイル牧場を救い、ハヤテオウと道を切り開くことだ。
散歩から帰ると、愛子が居間にあるパソコンを開く。駿馬に「『ナンデモ電機ステークス』の登録馬が出たみたい」と語りかけた。
「14頭がエントリーしていて、一番の強敵は前回優勝馬のサンクスギフト・・・ん?」
「ど、どうしました?」
愛子は驚いたのはブラックアローという7歳馬だった。オーナーはあの白金ファーム。さらに騎手の小幡和義は元RRCの実力者だったが、ある暴力沙汰を起こしてしまい、追放処分となっていた。社会復帰してからは全国の独立レースを転々としており、その界隈で名前を知らない者はいないという。
「小幡騎手が有力馬と共に参戦してくることは予想できたの。でも、よりによってブラックアローに騎乗するなんて」
「どういうことですか?」
「ブラックアローと小幡和義は2年前に金狼賞というRRCのG2競争で優勝したコンビなの。でも、それから間も無く小幡騎手がRRCを除名になって、ブラックアローはその年のG1ロイヤルクラウンで僅差の3着。もし、小幡騎手が《《ヤネ》》ならというの声は関係者もファンも聞かれたわ」
「そうなんですか・・・しかし、そんな馬が独立レースに」
「RRCを引退した馬が、最後の一稼ぎみたいな感じで独立レースに出ることはあるんだけど、まさかブラックアローほどの実績馬が出てくるなんて、よほどの理由がないと・・・まさか」
「フラワースマイルか」「フラワースマイル!」
「(・・・はもってしまった)」
しばらく駿馬は愛子と恥ずかしそうにお互いを見合ったが、我に帰ると一通り出走予定馬のリストを確認した。
駿馬はブラックアローの父に目が留まった。キングフィロソフィー・・・ハヤテオウと同じ産駒か。2歳馬が中央競馬を引退して間もない実績馬に挑まなければならない。そして自分たちにスマイル牧場、愛子とフラワースマイルの命運がかかっているのだ。切り開くしかない。
レースまで残り3日となった朝、駿馬は食後のコーヒーを飲みながら愛子に「そういえば『ナンデモ電機ステークス』の登録料は・・・独立レースと言っても、ただってことないと思いますけど」と尋ねた。
「ああ、実はスマイル牧場が10年間の登録権を持っていて、毎回1頭を出走させることができるんです。先代の残したものだけど」
なるほど、出走馬を探していたのはそう言う事情もあったのか・・・と駿馬は納得した。10年前にはそんな権利も購入できるほど潤っていたのかもしれない。
ハヤテオウの体力ゲージについては未だよく分からないが、本格的なトレーニングができるのは今日が最後だろう。あとの2日間は軽い運動で体調を整えてレース当日に臨む。この日はエミもハヤテオウの走りが観たいと言うことで、朝早くからやってきた。
馬房から裏手の平原にハヤテオウとフラワースマイルを連れて行く。愛子は朝食の後片付けや手続きなどの準備をするため、エミがフラワースマイルを引いた。
「ハヤテオウの額にあるキズみたいなのは?」
「ああ、僕らが出会う前、彼の生まれ育った牧場でラチに頭を思い切り打ち付けたことがあるらしくて」
「そ、それは痛そう・・・」
「馬産地の人はハヤテが自分のスピードをコントロールできなかったって言ってたな。脚とかを怪我しなかったのは幸いだけど」
「楽しみだなあ〜」
フラワースマイルとエミが見守る前で、ハヤテオウを走らせる。手探りだった一昨日と違い、段階を追って加速し、おおよそ600メートルほど直線を走らせて、コーナーを回るように折り返して元来た道を戻る。フラワースマイルの前で走らせることには少し不安もあったが、ハヤテオウも無鉄砲にスピードを出すことはなかった。
「(ハヤテ、良い感じだ)」
「(フラワーにうまくコントロールして走らなきゃダメだって注意されたから)」
「(彼女そんなこと分かるのか?)」
「(お前より頭いいと思うぞ)」
「(おいこら!)」
『ナンデモ電機ステークス』が行われるイナカノ競馬場は右回り、直線450メートルだ。直線に持ち出した時に後方だと、ハヤテオウの末脚でも差し切るのは難しいかもしれない。愛子によると把握する限り前回優勝馬のサンクスギフト、そして白金ファームのブラックアローが抜けた存在だが、ダッシュマイケルという逃げ専門の馬がおり、ブラックアローの《《ラビット》》ではないかと愛子は想定していた。
ラビット・・・つまりペースメーカーのことで、前の方を走りながら、勝たせたい馬のために理想的なペースを作る。元の世界でも海外の競馬ではよく聞く話だが、独立レースとなると、そういう馬もいるのだろう。
往復だいたい1400メートルほど。ハヤテオウに体力ゲージがどうなっているか聞くと、満タンから30%ぐらい減っているという。だいたい把握できたので、今度は1回より気合を付けてスピードを上げて、同じコースを走った。そこからキャンターで半分ぐらいの距離を往復して、あとはフラワースマイルも一緒に小川の方まで散歩をした。
二頭はつがいの丹頂鶴のように仲がよく、歩きながら時おり顔を寄せ合っている。馬は素直だなあ・・・元の世界で恋愛的な経験をほとんど持たない駿馬だが、幼なじみの春ちゃんに想いを寄せていたことがある。しかし、駿馬が競馬学校に合格し、実家を離れてからしばらく手紙のやり取りをsていたものの、そのうち音信不通となってしまった。
競馬学校に女性の生徒も何人かいたが、ライバルということでそういう意識を抱いたことがなかった。同期の一番仲よかった淳一は女生徒の一人と付き合っていたが、男の方が試験に落ち、女性が合格するという悲劇の結末だった。さらに彼女が順調に勝ち鞍を増やして、重賞勝ちもおさめるなど人気騎手の一人にまでなっているのだから皮肉な話だ。