3 ティアラの悲劇
今にもドアが開いてしまいそうなので、駿馬は寝そべっていたベンチから起き上がって、慌てて居住まいを正した。外で例の牝馬がいななく音が聞こえる。ハヤテオウは落ち着いているのか、家の窓からは様子が見えない。
「どうぞ、座っていてください」
駿馬を制して愛子がドアに向かった。その表情から緊張が伝わってくる。愛子はドアを開けることなく「すみません、今日は帰ってもらえませんか」と声を張り上げた。ドアの音は止んだが「そういうわけにはいかないな」と野太い声が返ってきた。
はあっとため息をついて愛子がドアを開ける。見えたのはいかにもタチの悪そうなサングラスをかけたパンチパーマと風景に相応しくない白スーツだ。「ん?」と男は短く声を発して続ける。
「なんだ、こんな真昼間から若い男を連れ込んでるのか?余裕あるじゃねえか」
「そんな関係じゃないです。お客さんですので、気になさらないでください」
「よく見たら勝負服、見慣れねえが・・・まさか、見つけたのか?」
「いえ・・・」
「ふん、まあ約束通り、期日までに耳を揃えてもらえれば問題ないが。さて、どうなるかな」
男は駿馬に一瞥してから「さて、じゃあフラワースマイルちゃんを一目拝んで退散するとしますか」と言ってきびすを返したので、愛子も慌てて外に出た。その流れに乗って駿馬も急いでドアに向かう。
ドアを出て左側の角を曲がった奥の方に馬房が見えた。最大でも5頭ぶんぐらいしかない小さな馬房だが、近づくとよく手入れしていることは分かった。その一番手前に美しい栗毛の牝馬がおり、その隣にハヤテオウが見えた。
牝馬はひどく怯えているように見えるが、ハヤテオウが首をそらせて牝馬に近付けている。一見するとハヤテオウが牝馬に求愛して、怯えさせている構図だが、そうではないだろう。間違いなくグラサン男が理由だ。
「なんだ?この牡馬は・・・随分と立派なゼッケンを付けているな」
「そのお馬さんは無関係です」
「こいつがレースに出るんじゃないのか?」
「違います」
「じゃあ、他の馬が見つかったのか」
「いえ・・・でも、必ず見つけます!」
駿馬が事態がまだ飲み込めなかったが、何となく想像はできた。愛子さんは何かの事情で、レースに出る競走馬を探している。この男はその賞金を目当てにしている・・・そんなところか。
「あの・・・眼鏡男さん」
「あん?眼鏡男じゃねえ、俺は白金次郎だ」
「あ、僕は芝野駿馬と言います。漢字でシュンメと書いてシュンマです」
「そうか、身なりはジョッキーみたいだが聞いたことないな」
自慢ではないが、競馬界の新星として芝野駿馬の名前を知らない関係者はいないはず。そして着ているのは泣く子も黙るピンストライプの勝負服。やはり別の世界に飛ばされてしまったということか。まだ分からないことだらけだが、愛子に打たれた痛みはまだ消えておおらず、ただの夢ではないことを確信した。
「そのレースについて教えてくれませんか?」
「ふん、説明するのも面倒だから、そこの愛子さんにでも聞いてくれ。俺は帰るわ・・・締め切りまでに登録を済ませておくんだな」
口笛を吹きながら去りゆく白金の背中に目を向けながら愛子がまた1つため息をついた。
「それにしても綺麗な牝馬ですね。フラワースマイルでしたっけ?」
「ええ、彼女のお母さんはスマイルティアラと言って、ロイヤルオークスを勝った名牝だったんです。でも出産とともに亡くなってしまって・・・」
駿馬は愛子にコーヒーを淹れてもらい、香りと苦味に改めて夢ではないことを実感しながら情報を仕入れた。フラワースマイルは小さい頃から関係者が絶賛するほど美しかったが、体質が弱く、最初から競走馬にすることは諦めて、繁殖向けに育ててきたという。
看板のスマイルティアラが亡くなったことで経営が苦しくなったところに、別の繁殖牝馬の不受胎など、さらなるアクシデントが続き、スマイル牧場は残る持ち馬も売却するなど、縮小の一途を辿った。愛子が先代を引き継いだのは2年前、フラワースマイルが生まれ、スマイルティアラが亡くなった1年後のことだった。先代がどうなったかは聞かなかった。
ロイヤルオークスというのは競馬を主催するロイヤルレーシングクラブ(RRC)のG1レースの1つ、元の世界ではナショナルオークスに当たる。クラシックと呼ばれる3歳の牡馬と牝馬それぞれ三冠レースがあるというのも同じだ。
「RRC・・・あっ」
「どうしました?」
「いや、何でもないです」
補足すると、元の世界ではダービーに牝馬でもエントリーできるが、あくまで牡馬と牝馬のクラシックで別れているらしい、いわゆる騸馬はクラシックに出走できない。このことを話す時に愛子の顔が少し赤くなったのに駿馬は気付かないフリをした。
「ただ、そうした中央競馬に今回のレースは関係ないということですね」
「はい。RRCの主催する中央競馬とは別に独立レースというのがあって、個別のスポンサーが自社の名前や商品の冠を付けて行うんですけど、その中でも最大のレースの1つが7日後に行われる『ナンデモ電機ステークス』なのです」
ナンデモ電機というのがレースのスポンサーなのだろう。すごいネーミングだな・・・駿馬は笑いを堪えながらも、本題に引き戻す。
「なるほど。その1着賞金が3000万円・・・それを白金ファームへの返済にあてると」
「はい。恥ずかしい話ですが。ただ、今のうちには競走馬がいないので、お付き合いのあったところにRRC未登録のお馬さんを借りられないか話を持ちかけてるのですが、ここまで全て断られてしまって」
まあ、このての話の展開は読めるな。おそらく白金ファームがスマイル牧場に協力しないように根回ししているのだろう。
「あの・・・良かったらですけど、そのレースに僕とハヤテオウで出ましょうか?」




