第九十六話『俺に生きる力をくれた』
蒼の体が、止まった。
瞠った視界の中に涙の軌跡が見える。 その粒一つ一つに、彼の人生の記憶が映っていた。
一心不乱に生きた第二の人生……その少年の生き様を、思い出す。
諦め。 何とも耳心地の悪い言葉だ。
彼が、己の中から排除し続けた言葉である。
最初の人生では、この言葉に絡め取られ自ずから殻を破ることをしなかった。
彼は思う。 己に問う。
そして開いた異世界の扉の先で、今度こそと諦めを振り払って走り続けた自分が、何故今その感情に支配されている?
彼の名は小波 蒼。
前世の後悔を握り締め、黒縄を超え、世界の隅からルイに会いに来た男。
モブの肩書きを与えられながら、そこで立ち止まらないために、努力し、限界と戦い続けて、生きてきたのだ。
諦めるなど、彼らしくない。 自分への苛立ちを吐き捨てる。
「………………くそ」
何より、ルイが、泣きながら訴えているのだ。 蒼に、生きてと。
自分を殴りつけたくなった。 事実、沈む意識の中で彼は自分の頬を拳で打った。
ルイが、悲しんでいる。 蒼が、誰よりも愛した人がだ。
そんな彼女の悲しみよりも、自分の選択に絶望していた自分が今になってあまりにも腹立たしくなったのだ。
「昔と、変わってなかったな」
この意識が常闇に消えるまで、死んではいないではないか。
その最期の瞬間まで、絶対に諦めてなるものか。
命を燃やせ。 そして、虚空をも掴み、這い上がれ。
「くッ!!」
体を大きく使って手を伸ばす。 わずかに体が浮かぶが、手は何も掴まない。
そこで折れない、諦めない。 何度だって、手を伸ばす。
ルイの足音がする、ルイが呼ぶ声がする。
ここにいるよと声を上げながら、蒼は暗闇の天上を望む。
体がわずかに深淵から離れる。 その暗闇を突き破るには空は遥かに高く、体は浮かんだだけ沈んでいく。
「上がれ……上がれッ!!」
吐き捨て、さらに高みを掴むべく体を揺らす。
『小波ッ!!』
「ルイッ!!」
互いの名を叫び、見えない相手を探す。
愛しい声だ。 意識が、轟々と燃え盛る。
重苦しい闇が、鮮明に、透き通る黒へと変わっていく。
まるで、光が差し込んだようだった。 それでも、生への道のりは遠い。
「俺は……前の世界にたくさんあっただろう素敵な何かをことごとく見出すことができなかった……でもそんな中で、ルイに出会えたのは、本当に……奇跡だったんだと思う」
手が虚空をすり抜け、歯噛みする。
死とは圧倒的であり、たとえ業火の如く燃える焔であっても対峙するにはあまりに格が違う。
『どこにいるの――!?』
「ルイに出会えて、よかった。 もう一度、必ず、会いに行くんだ」
自分に言い聞かせて、広漠たる死の狭間に吠えた。
こうなったのは、自分のせい。 だからこそ、このまま終わらせてはいけないのだ。
後悔をしないように生きただけに、生まれてしまった後悔により強く打ちひしがれ絶望していた自分に、言い聞かせる。
「人生は、一度きり……」
目を閉じて、口癖と言っても相違ないほどに口元に馴染んだ言葉を諳んじた。
「でも、失敗したって、そこで終わりにさせちゃダメなんだ……!!」
目をしっかりと開き、体に闘気を宿す。
蒼のように、後悔しないように必死に生きたとて、その通りの人生を歩むのは難しい。
人は、必ず間違うものだ。
それならば、生まれた後悔を踏み台にして、生きるしかないのだ。 そのまま絶望に呑まれるのではなく、前よりも強くなって――次こそはと、生きねばならない。
後悔を後悔のまま終わらせないために。
人生の最期に、笑顔でいられるようにするために。
後悔のない人生とは、何一つの失敗もなく、完璧に生き続けることではないのだから。
一歩浮かべば三歩沈む。 ルイの足音は、すぐ近くで聞こえる。 意識は少しずつ遠のいていくが、決して手綱を離さない。
「ちゃんと、伝えなきゃいけないことがあるッ!!!!!!」
感謝だったり、謝罪だったり。
今一度、叫んだ。
体が今までより大きく進む。 暗闇はよりクリアになっていった。
瞬間。
『――――――』
ルイの声でも足音でもない音が、蒼の耳に届いた。
トンネルの中を突き抜ける風の音のような、ゴウという音である。 闇へ溶けていく意識が、突然の覚醒を余儀なくされた。
頭上ではない、真下からだった。
深い底を見下ろす。
光の粒の一点がそこにはあった。 純白の光は慈母の如く煌々とした光を広げていき、闇は次第に下から祓われていく。
「あのときの……!?」
バスの交通事故で死んだときと同じだ。 せり上がってくるあの光も、体を支配する感覚も。
蒼を、いや、中原 重音を異世界へ送り出した存在だった。
今さらながら、“小説やアニメでよくある展開”と容易く飲み込んだ体験が、いかに突飛で、奇妙で、奇天烈な出来事かと思う。
異世界転生、その字面だけは腐るほど見たが、よくよく考えれば、何故そんなことが起きたのだろう。 しかも、二度目が目の前だ。
体が急速に沈みこむ。 頭上の闇が瞬く間に遠のいていく。
あの光は、奇跡の光だ。 まさかまたあの光に合間見える日が来るとは、思わなかった。
異世界への扉……いや、空想世界への扉。 あの光の先にはまた何か別の物語がある。
蒼に、再び別の世界への旅が与えられようとしている。
一体何故。 何の、誰の意思で。 どうして自分に二度も。 この先には何がある?
別の世界? それとも、あのときの自分は生きていて、元いた世界に戻るのか? そんな風に頭は巡るが、それは今の自分に不必要な思考だと切り捨てた。
そう、必要ない。 そんな思考も――この光も。
蒼にとって、真下から彼を包み込まんとする幻想魅惑の光は、柔い陽光差し込む幸せな夢から無理矢理目を醒まさせる無粋な騒音でしかない。
誰かの意思か、はたまた神の戯れか……蒼目掛けて進む光を見下ろして、蒼は優しく言った。
「俺に……次の人生は必要ないよ」
蒼は光から視線を切って空を見上げる。
未だ暗い空。 手を伸ばすは、光ではなく闇。
「ルイと一緒の人生を、次の人生なんて必要ないくらい、悔いの残らないように全力で生き切るから……ッ!!」
光は、次なる生へ。 それが、決して悪い選択というわけではない。
だが蒼はそれよりも、たとえどれだけ可能性が薄かろうと、この天上の闇を突き抜けるべく挑む道を選んだ。 この闇の元へ戻って、そのまま死ぬ未来が待っていようとも、その先へ戻らねばならない。
「それに、今の人生をこのまま終わらせるような奴に、次の人生を生きる資格はない!!」
蒼は光に完全に背を向けて、闇へと向き直る。
あの光を通り抜けたときの自分とは違うのだ。 少なくとも、彼はそうでありたいと思う。
「小波!!!!!!」
声。 声だ。 ルイの声だ!
今までよりもずっと鮮明に聞こえる。
何度も反響する声。 今度は真下からではない、蒼が見上げる暗闇の先から。
人影が見える。 決して見紛うことのない、金色のツインテールが見える――!!