第九十三話『手と手を繋いで』
辛うじて生き残ったビル群の中の一棟に駆け込む。
事務所の鍵を罪悪感とともにぶち破って広大な空間に押し入った。
横一列に並ぶ窓から日の光が差し、度重なる震動で机の書類は散乱していた。
人気のない大きな部屋に遠のいた戦場の揺れが穏やかに伝わり、天上からわずかな埃が落ちていった。 日差しに反射して、雪のように舞う。
小波を壁に凭れさせ、ありとあらゆる引き出しを漁る。 やっと見つけた薬箱を持って小波の元へと戻った。
このままだと力加減が難しい。 鍵を両方引き抜いて小波の側に放り投げた。
包帯が足りなければ、別の階から掻っ攫っていこう。
血まみれの小波を見つめる。 言葉を伝えるよりも先に、冷静を取り戻したルイにはやるべきことがあった。 大きく深呼吸して、自分のやるべきことを整理する。
それから、勢いよく取り掛かった。
消毒、ガーゼを当てる、包帯で圧迫。 学校の授業や家での教育を思い出しながら、それをひたすら繰り返す。
ルイの手はすぐに赤く染まり、制服も汚れていく。
焦りは未だに冷静を揺さぶろうとする。 それでも、急ぎすぎて足を踏み外さないように慎重に、されどできる限りの早さで処置に当たる。
正直、こんなレベルの処置などで命が救えるとは思わないが、ほんの少しでもルイの声を届ける時間が稼げればいい。
「……はぁ……は、ぁ」
切羽詰って呼吸が止まっていたかもしれない。 下を向いて大きく呼吸を繰り返すルイ。
彼女の両手は、小波の肩に乗せられていた。
粗方処置は終えたが、包帯には既に赤が滲んでいた。 汗が大量に顔を流れ落ちていく。
両手を肩から頬にあてがい、目を合わせる。 小波の閉じた目の端には、乾いた血の涙の跡がある。
「小波……?」
ルイは、言葉を交わすように問いかける。 少年は眉一つ動かさずに眠り続ける。
彼の命は長くない。 そこから予想される結末を雑念と払い、額を合わせる。
小波の熱をまだ感じる。
「今、頭がごちゃごちゃしてる。 色んな感情でいっぱいよ。 自分勝手な感情も、たくさん」
少年の体は動かない。 言葉は空しく広大な空間に広がっていく。
ルイは目をギュッと瞑って語り続ける。
「自分を責めたくて責めたくてしょうがないの。 あなたをこんなに追い詰めた、最低な私を」
心に届く前に、枯れかけた体に言葉が跳ね返されているような気がする。 小波の焼け爛れた肺から、ほんの少しだけ漏れた空気がルイの唇に触れた。
「でもあなたは、こんな私を、世界で一番愛してるって言ってくれた。 本当に嬉しかった。 いっつも素直になれないけど、そう思ってる。 あなたのことが好き」
さらに力強く目を瞑る。 やはり、彼から応答する気配はなかった。
「……ごめんなさい」
涙が、落ちた。 一滴、それからたくさんの涙が続く。
冷静を取り乱しているわけではない。 ただ、大きく膨らんだ彼が応えないという悲しみを、体が勝手に外に逃がそうとしているだけだ。
「私は、一度あなたを突き放してしまった。 それはあなたを、酷く傷つけた」
あの日、もみ合う朱莉とルイの間に割って入ったずぶ濡れの小波を思い出す。 彼の頬を伝った涙の跡を、ルイは朱莉に揺さぶられて乱れた視界の中でも確かに見ていた。
窓も閉まり、空調の壊れた部屋は蒸し暑い。 ところが、体の内側は雨に打たれたかのように冷え切っていた。 指先が凍っている。
「でも、これだけは伝えさせて欲しいの。 私は、私は……もっと、あなたと一緒に生きたい。 ハヤトかあなたかも決めれない中途半端な私に、あなたを追い込んだ私に、そんなこと言う資格がないのは分かってる……!! でも!」
頬に触れる手に力が篭る。 口先が自虐を繰り返そうとしている。 だが、最低な自分を責めることよりも先に、伝えなければいけないことがあった。
顔を上げて、唇が触れそうなほど近くで言った。
「あなたと、もっと一緒にいたいよ……!」
小波を抱きしめる死の気配が、ルイの必死の言葉を弾く。
感情が混ざる。 自責、懇願、悲嘆、利己的な叱咤、愛情。
「ねぇ、小波……! 私に、会いに来てくれたんでしょう? ずっとずっと遠い場所から、私に会いに来てくれたんでしょう……!?」
乱れる感情が、強い口調となって小波にぶつかる。 だがそれは、決して彼の心の内へと沁みては行かなかった。
「だったら、目を開けてよ……!!」
彼女の涙ながらの強い言葉は、かえって空しく虚空に響いていった。 ルイのしくしくと泣く音が、静かに広がる。 ずり落ち、小波の胸に額を当てた。
「起きてよ……バカぁ」
どんな想いを口にしても、小波は眠ったままだった。
ルイの気持ちは、小波には届いていない。
しかし、諦めだけはつかなかった。 彼を喪う恐怖に涙を流しながらも、彼を救う方法を、彼に想いを届ける手立てを模索し続ける。
「……」
胸に埋めた瞳が脳に伝える狭い視野。
血に塗れた小波の下半身に、真っ赤に染まった包帯の切れ端。 そして、彼の側に横たわる赤と青の鍵。
「『煌神具』……」
血。
『煌神具』。
ルイの、想い。
何か、こみ上げてくる。 ばらばらに散らばるそれらが、次第に線を伸ばして、手を取り合っていくような、そんな感じがした。
「そう、か」
ハッと、道筋が開けたような気がした。
ルイは顔を上げて、右手で自身の左腕の中ほどに貼り付けられた絆創膏に触れた。
……あれは、小波が黒縄を命がけで討った日のことである。
☆
あのとき、小波の容態は最悪だった。 失血も多く、大量の輸血を要した。
入り乱れる病院関係者たち。
手術室に灯ったランプを見つめて、どれだけの時間が掛かったかは覚えていない。
無事を祈る家族たちから離れて胸に手を当てていたルイに、その情報は突然入ってきた。
輸血が足りないという情報である。 キュクレシアスのテロと、それ以前に起きたトウカツの襲来により輸血が大量に必要になり、小波のいる病院に回せる血液が残っていないというのだ。
その場にいる人間の血液が直ちに必要という話になった。 二卵性の双子である朱莉は、小波と血液型が違っていた。
ルイは、そのことを知るよりも先に、名乗りを上げていた。
「いや、しかし、ですな……」
恐縮しつつ難色を示したのは、医者ではなく小波の父親である。
彼はおずおずとルイを諭す。
彼がルイに妙に恭しいのは、今もFND日本支部の頂点に君臨する『隻眼の仙老』、早乙女 蓬莱以下その親族たちの血を引くものであるからに相違ない。
社長の娘と話すようなものなのだろう……彼は慎重でありながら、それでも毅然としてルイを諭し続けた。
輸血は、稀に適正の転移を起こす。
その強大さを特別な『煌神具』適正に依るところが多い天上の名家たちは血統を重んじ、献血などで適正の流出が起きることを常々危惧し、徹底的に管理している。 早乙女家はその中でも特に管理に厳重であり、それを知っているだろう小波の父親はどうしても許可できないようだった。
だが、早乙女家から常々失望と迫害を背負わされてきたルイには、そんなことを守る道理はない。
何より、自分のせいで小波がこれほどまでに傷ついてしまったのに、何もせずに立っていることなど、ルイには到底できなかったのだ。
☆
頬を撫ぜる。
閉じた瞼が、再び開くことを信じて、ルイは血で汚れた赤の鍵を一本拾い上げた。
「……」
一呼吸して、鍵を握り締める。 自分の声を、この鍵に託す……ルイに残された、最後の手段だった。
『煌神具』は人の記憶を残す。 小波に適正が移っていれば、鍵に残ったルイの想いが小波の意識に届くかもしれない。
適正の転移といっても、頻繁に起こるわけではないし、確率でいえばかなり低い方だ。
しかし、小波は応えてくれると、ルイにはどこか確信じみたものがあった。
「私の声を、彼に伝えて……!!」
《『不撓不屈』、Caution》
呼応するように、力強く握り締めた鍵から女性の声が漏れた。
小波の手を取り、ゆっくりと鍵を近づける。
「お願い……もう一度、目を開けて」
細い息を吐くように慎重に小波に声を投げかける。
「私の声を、聞いて」
そして、鍵を小波の起動装置に差し込んだ。
小波の体に、淡い光が宿る。 ルイはそっと、彼の手に自分の手を絡めた。