第九十二話『死なせたくない人』
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何か、何かないか。 彼の命を守る方法は。
頭は巡るが、焦燥で思考は必要以上に加速し、思うようにまとまらない。
指先の鼓動は、風に流されてしまいそうなほど小さかった。
「蒼……蒼……」
彼は応えない。 彼の両腕に巻き付いた起動装置から鍵が吐き出され、度重なる負荷に耐え切れず砕け散る。
見たことがない光景だった。 彼の体にどれだけの負荷が掛かっていたか、見るに容易い。
彼の纏う戦闘衣が粒子と消え、元の服装へと戻った。
「小波」
静かに呼びかける。
「小波……!!」
もう一度。
「小波ッ!! 目を開けてッ!!」
声を張り上げて。 小波は応えない。
服の上に大粒の涙が落ちた。
巡る思考は、何も答えを持ってこない。
人の死ほど、恐ろしいものはなかった。 それが、ルイにとって最も大切にしている人たちであれば、なおさら。
圧倒的な死を前に、人間にできることは少ない。 思いは空回り、冷静でいるつもりの思考は知らずパニックに陥っている。
何もせず子どものように泣いている自分が、情けない。
「あーあ」
嘲る声に、朱莉が憎悪を目に宿して顔を上げた。
「せっかく久しぶりに心踊る相手だったのに、残念」
黒縄 リリア。
先程より生傷があからさまに増えている。 遠くで、肩で呼吸する冥花先生の姿が見えた。
流石はFNDの元絶対的エース、だが最高幹部を二人同時に相手し続けるのは難しいか。
朱莉の体が強張ったのが分かる。 涙が切れ、ルイの手は小波の死をあざ笑う黒縄を前に怒りで強く小波の服の生地を掴んでいた。
ルイを見つめ、悪辣な表情で黒髪の少女は詠う。
「あのときは指令でしぶしぶ殺すことになっちゃたけど、今は私の毒も消えたんでしょう」
朱莉の恐れもルイの怒りも気に留めることなく、黒縄は機嫌がよさそうだった。
「それじゃあ早乙女のお嬢さん、私と踊りましょ?」
黒縄の存在が、ただでさえ混乱した思考に更なるプレッシャーを絡める。
どうする。 自分の取るべき行動が分からない。
小波を連れて逃げるか。 いや、この女がそれを簡単に許すとは思えない。
これ以上冥花先生が黒縄に気を配ることはできないだろう。 少なくとも、誰かを当て馬にしなければいけないが、黒縄とまともに対峙できるのはこの場でルイだけ。
小波を朱莉に任せて黒縄と戦うしかないか。
だが、小波を放っておくのは。 しかし、小波の側にいたとて、自分にできることなど。 だが……。
ぐるぐると回り、思考はますます困惑する。 結論は遠い。
「……来ないで」
一声。 小さく唸るルイの横で、震える声が立ち上がった。
朱莉が、蒼の腕に巻きついた起動装置を自分の腕に嵌めて黒縄を睨みつけている。
精一杯の威圧を黒縄に向けるが、黒縄が朱莉を格下と理解するのは、その足の揺れを見れば容易い。
「誰でも私と対等に戦えると思っているのかしら? 舐められたものね」
黒縄の足元に毒の沼が広がる。 朱莉が鍵を取り出すが、取り落としそうなほどの震えが見て取れる。
ダメだ。 彼女に戦わせるわけにはいかない。 小波を朱莉に任せて、黒縄を討たねば。
「朱莉ちゃん! ソイツは私が――」
「ダメ!!!!」
ルイが意を決して声を張り上げたが、それ以上の大きな声で、朱莉が吠えた。
黒縄の足元から、無数の触手たちの鎌首がもたげられた。
「絶対にダメ……!!」
朱莉は頑として譲らず、立ち上がろうとしたルイを制し続ける。
「蒼の側にいて」
怯える声で、されど強い意思を込めて朱莉は背中越しに言った。
「悔しいけど、あなたは、蒼にとって一番大切な人……だから、蒼の側にいて! 離れちゃダメ! あなたが蒼の側にいたら、きっと……!!」
朱莉の言うことに、根拠があるかは分からない。 それでも、ルイの体は止まった。
「死に行くものに縋っても、何も得られるものはないわよ」
その、ルイの体が硬直した一瞬を突かれた。 黒縄の手が指揮棒として触手を操る。
まだ『煌神具』を起動してもいない朱莉に、触手の軍勢が迫る。
「朱莉ちゃん!!」
「――なるほど、人間として尊ぶべきものが欠落したあなたらしい言い様だ」
一閃。 空気を薙ぐ音と共に、ルイの真横から赤色の斬撃が閃いた。
幾多にも枝分かれした斬撃が触手に絡みつき、斬首の如く触手を中ほどから消し飛ばした。 毒の血はルイたちには届かない。
足音がルイに並ぶ。 その凛とした立ち姿を見上げ、ルイの口から少女の名前が漏れた。
「琴音ちゃん……」
紅の戦闘衣。 フードの下から、白銀の髪が覗く。 普段の柔和で穏やかなルビーの瞳は今、敵意と確固たる守護の意思に燃えていた。
片手で巨大な斧を支え、斧は主人の敵を屠るべく鈍色の光沢を見せる。
「白峰 琴音……か。 あなたを摘むのは、もう少し育ってからにしたいのだけれど」
黒縄の残念がる笑みを無視し、琴音はルイを見下ろした。
真摯で、気高く、毅然とした表情だった。
「早乙女さん。 あなたは何をしているんです」
屈んだ琴音は、手を伸ばしてルイの和装の襟を掴んだ。 彼女らしからぬ乱暴な手つきだった。 横たわる蒼を挟んでルイと琴音の瞳がぶつかる。
琴音はそこからさらにぐいとルイの襟を引き寄せ、より近くでルイを強く見つめてきた。 はだける服を気にすることも忘れ、ルイはただ呑まれるように琴音の瞳を見た。
「あなたのやるべきことはなんです。 ここでただ泣きじゃくることなんですか?」
厳しい口調で琴音はルイに問う。 琴音は言っているのだ、小波を助けろと。
「すれ違ったまま、彼を死なせるんですか。 ただ手をこまねいて、彼が死ぬのを眺めて、後悔しませんか。 彼が死んだら、もう、あなたにあの笑顔を向けてはくれないんですよ」
脳内に、思い出が流れる。 小波の笑顔。 今では、あの笑顔を愛くるしいと思える。
ダメだ。 ここで彼を喪うなど、考えられない。
思考は琴音の言葉で冷静さを取り戻して行くが、それでも、自分にできることが分からない。
小波の体から血が流れていく。 止血できたとして、それ以上に彼の命が消えていくのを止める術が自分にあるのか。
「でも……」
「諦めてはいけない」
琴音はなおも強い口調で言う。 力強く、されど背中を押すような優しい響きだった。
「彼はまだ、生きているんです。 必ず、やれることがある」
有無を言わさぬ口調は、彼女が言えばそうなのだと思わせる、王女の一喝のようだ。
「小波 蒼くんのことを、私はあなた以上に知らない。 けれど、これだけは分かる」
小波の胸の上に置かれたルイの手に、琴音が手を重ねる。 この少女には勝てない、場違いにもそんなことを思った。
「彼は、とても強い人です。 その強さは、愛故のもの……他でもない、あなたへの愛です。 彼は、あなたのことを、誰よりも深く愛している」
ルイは視線を落として小波の顔を見下ろす。 彼女の指先には、まだ微かに鼓動がある。
「人は選択を誤ることがある。 彼は、あなたを傷つけてしまったと思います。 それでも、問いたい。 彼は、あなたを悲しませるような人ですか?」
首を横に振った。 すれ違いが悲しみを生んだ。 今も、彼の死が恐ろしく、悲しい。
だが、彼はいつも、ルイの幸せを考え続けてくれていた。
腕がもげようとルイの幸せのためになにかを成し遂げる男なのだ、小波 蒼という男は。
琴音の言葉の意味に気付いて、ルイは顔を上げた。
「あなたの気持ちを伝えて。 小波くんは、必ず応えてくれます。 彼は、あなたを悲しませたままにはしない、そういう男だと確信しています。 叱責でもいい、懇願でもいい。 他ならぬあなたの声で、彼を連れ戻して。 ……あなたにしか、できないことなんです。 誰よりも強く愛されている、あなたにしか」
呼びかけで、人の命が救えるのなら容易い。 だが、ルイも琴音の言葉をすっと飲み込んでいた。
彼は、どんな死の間際にいても、ルイの声を聞いてくれそうな気がした。
同時に、それ以外のどんな高度な医療であっても、彼を救えるものはないという確信もあった。
「私は、手と手を繋いで共に生きるあなたたちが見たい」
紺碧の瞳と真紅の瞳が向き合う。 ルイは一つ、力強く頷いた。
琴音はゆっくりと立ち上がり、斧を背中に担ぐ。
「これは命令です。 彼を必ず、私の前にもう一度連れてきなさい。 もちろん、生きたまま」
最後に、ルイに向けて一つ、背中を見せて語った。 さながら上に立つものの物言いに、ルイは苦笑いを浮かべる余裕を取り戻していた。
「まるで王女様ね」
「……すみません、つい昔の癖が」
琴音は一歩前に出て、朱莉を庇うように毅然として戦場に立つ。
「待たせましたね」
「構わないわ。 奇襲したって面白くないもの。 でも……退屈にさせた分、楽しませてよね」
「ええ、それはもう。 楽しませて差し上げます……後悔するほどにね。 ……朱莉さん、私の後ろに」
頼んだ。 心の中でそう強く伝えながら、ルイは小波を抱えて走り出した。