第八十五話『こみ上げる憎しみ』
崩れ落ちた街。
瓦礫には水色の炎が燻り、不規則な風が流れている。
瓦礫の上を飛び歩く体が、緊張で上手く動かない。
ビルの骸の奥で、水色と黒の光が爆ぜた。
「アイツ……何してるの。 何で」
不安とともに、蒼への憤りがこみ上げる。
飛び散った破片がルイに礫として降り掛かる。 頭を庇いながら、灰色の荒野を進む。
「大丈夫!?」
朱莉がいた。 瓦礫たちに囲まれながらへたりこんで泣きじゃくる朱莉に、ルイは駆け寄って屈み込む。
ルイの手をどかし、体を控えめな力で押した。
そんな拒絶に、ルイは抗うことなく尻餅をついた。
「蒼が……死のうとしてる」
今一度、炎が煌いた。
朱莉のか細い声を掻き消す轟音が瓦礫を越え、風とともにやってくる。
朱莉は憎しみを込めてルイを涙でぐしゃぐしゃの顔で睨む。
「あなたの……あなたのせいだ……!! あなたが蒼を受け入れなかったから! あなたが蒼を見捨てたから!!」
「そんな! 私は……」
ルイは立ち上がって反駁する。
確かに、ルイは一度、相手を深く傷つける選択をしたかもしれない。 しかし、それでも。
私はメールを送ったんだ。 もう一度会いたいと。
そう言おうと開きかけた口が、道端に転がっていた小波の携帯を見て、閉じる。
(まさか、見てない……?)
体が冷えていくのが分かった。 指先が氷のように冷たい。
自然と、拳が出来た。 小波 蒼は、このままだと死ぬ。
ルイが、後悔した想いを伝えきれないまま。 そんなこと、どうあっても度し難い。
咽ぶ朱莉に、ルイは告げた。
「小波は死なせない。 今すぐにやめさせる……絶対に」
朱莉が顔を上げる。 ルイが懐から鍵を取り出したと同時、正面で壁を為していた瓦礫が水色の炎によって消し飛んだ。
咄嗟に朱莉を庇って屈み、閃きから顔を反らす。
凄まじい力だ。 その一瞬を見ただけで、自分の力が及ぶか分からないとまで思えた。
「蒼……?」
開いた道から歩いてくる人影を認め、二人は立ち上がる。 朱莉は震えた声を絞り出す。
小波だ。 体にはいくつもの裂傷が入り、目から流れ落ちた血が地面へと滴る。
口からは黒い煙。 手に持った剣の刀身に、不気味な緑色の風と炎が渦巻いている。
「小波!! アンタ、何して――」
非難の言葉が、途切れる。
小波の目には、ありありと浮かぶ殺意。
ルイの頭に疑問が浮かぶ。 何故、それが自分たちに向いている?
剣にまとわりつく暴力の塊が肥大化した瞬間、ルイは朱莉に飛びつき、押し倒していた。
倒れこんだ二人の頭上を、灼熱の風が通りすぎる。 遠くの大地が、消し飛んだのが見えた。
自分だけでもとすぐに起き上がり、殺意を向ける小波を見た。
その指がもたげられ、ルイに突きつけられた。
「如月、ハヤト……お、お前を……殺してやる」
「な……何を言ってるの?」
冗談を言っているようには見えない。 彼は本気で、ルイのことをハヤトだと思い込んでいるようだ。
彼がハヤトとそれほど仲が良くないことは知っている。 だが、あの小波からそんな彼を殺すなどという言葉が出るはずがない。
「お前が……お前さえ……いなければ。 ルイはもう、苦しまなくていいんだ……!」
「小波……? 私は、ルイよ……」
聞く耳を持っていない。 剣を構え、彼の周囲に可視の風が巻く。
まさか。 憶測が、ルイの視線を動かす。 そして、捉えた。
小波よりもずっと奥に佇む二人の人影。
一人は黒縄だった。 死んだはずの女が幽鬼の如く立っている。
驚かされたが、それよりも。
ルイは隣にいるシュゴウを睨んだ。 口から煙を吐いて霧を為しながら、シュゴウは愉快そうだった。
CODE:Iの連中の資料は穴が開くほど読み通した。 シュゴウの使う『毒神具』は、相手の精神を侵す、精神攻撃系のものだ。
あの力に襲われたFNDの高潔な騎士たちが、どれだけの味方を切り裂き、その味方の血を浴びて狂喜に身を震わせたことか。
小波は確実にその意識を穢されている。 ハヤトを殺すべき怨敵に捉え、ルイがその怨敵に見えているのだ。
小波の笑顔を思い出す。 彼が命を賭けてルイの命を守ろうとしたことを思い出す。
その力を、その全身全霊の命を賭けた力を、彼女は弄んでいる。
拳がみしみしと音を立てる。 一線を越える音だった。
「朱莉ちゃん。 下がってなさい」
低く唸るような声に圧され、朱莉は言葉を返せない。
小波は今にもくず折れそうな満身創痍の体で構えを取る。
自分が目の前にいる相手を手に掛けることが、ルイを幸せにすることだと信じ込まされて。
憎しみが、唸りに現れる。 シュゴウが、そんなルイを見て吐き捨てた。
「想い人と最期に刃を重ねて死ねるなんて、彼も幸せですね」
頭の中の何かが、切れた。 理性を制御する全ての箍が外れる。
憎しみが体を駆け巡り、生身でも相手を切り裂けると思えてしまうほどの力がこみ上げる。
握り締めた鍵が、砕けてしまいそうなほど軋む。
これまでの人生で、多くの迫害を受けてきた。 多くの人間に悪意を向けられ、反抗し、ときに泣き寝入りし、生きてきた。
……だが、これほど明確に人を殺したくなったのは、初めてだった。
体が化け物に操られているようだ。 自分を制御できない。
シュゴウを睨みつけ、叫んだ。
「き、さまぁぁぁぁぁぁああああああッッッッ!!!!!!!」
鍵が光る。 小波が、走り出した。