第八十二話『ニアミス その7』《閲覧注意》
一部の方には不快に感じる描写があります。 閲覧注意です。
あの夏の日、一番の友人だった少年に向けていた感情を、彼女は思い出した。
忘れてようとしていたストレスが、青い恋心とともに戻ってくる。
からからに渇いた喉が鳴り、呼吸が乱れる。
唾を飲み込み、間に合わせの潤いを得る。 震える口元を搾って、笑顔を作った。
足元は、覚束なかった。
「あ、中原じゃん」
清里 茜。 彼女は――死にたかったのかもしれない。
高校三年、早いものは既に進学が決まり始めた秋頃である。
他校の不良に、彼女は付きまとわれていた。
地味な印象の拭えない彼女だったが、体の育ちは悪くなかった。
そんな彼女に勝手に劣情を持ち、勝手に集ってくる男は、これまでの人生に多くいたが。
その男は、郡を抜いて卑劣で、異常に執拗だった。
大学に入ってから、彼女は自分が付きまとわれていることにも気付かなかった。
だから、盗撮された下着姿の写真を見せられたとき、何がどうなっているのか分からなかった。
すぐに警察に通報するべきだっただろう。
だが、そんなことをしたら自分の赤裸々な姿が一生ネットに残ると。
それに、言うことを聞いたらこの写真は消す、と。
一瞬で様々な思考が巡った。
天秤が激しく揺れ、心臓が脳を急かす。
未だ世界の残酷さを知らない少女は、やがて、男の言葉を信じてしまった。
下劣な悪人の言葉など、信じるべきではなかった。
男は、確かにその写真を消してくれたのだろう。
ただ、それよりも屈辱的な写真の数々が、茜を苦しめることになった。
一歩だけ、ただ一歩だけを踏み外した彼女の人生は、瞬く間に堕ちた。
写真の内容がエスカレートするたびに警察への足取りは重くなっていき、彼女は身動きが取れなくなっていった。
両親に先立たれた彼女に身よりはなかった。 大して顔も知らない祖父母からの仕送りで大学に行ったが、件の男も同じ大学だった。
茜にできたのは、その異常な日々を、日常に落とし込むことのみ。
男の言うことに従順に、犯罪を日常へ。 男のことを好きになる要素など、どこにもなかった。
茜は必死に、自分を騙し続けることで、人生を保った。
だが……誰か、助けてくれ、と。 自分を騙る中でふと、誰でもない何かが、心に溜まった淀みを全て吐き捨て、自分を苦しみのないどこかに連れてっていてくれることを願うことがあった。
そして、自分を騙し続けて早幾年、彼女の願いを聞き届けたように、救済の日は、突然訪れた。
「……あ、清里。 ひ、ひさしぶり、だな」
バス停に並ぶ少年。
彼を見た瞬間、高校の美しき日々が彼女の中に花咲いた。
同時に、今自分が、どれだけ濁った淀みの中にいるかを、自覚してしまう。
「中原、変わんないね」
彼は、そのままだった。
彼と歩んだこそばゆい青春の日々に戻れたら、これ以上幸せなことはないだろう、そんな風に思った。
「カレシがさ~」
笑えた。 恨みを込めた皮肉だったことには違いないが、こんな軽々とした言葉が口を衝いたのが。
もう、彼女の心は元に戻らないほど、悪意に慣れてしまっていたのだろう。
それとも、自分の現状を、知ってほしいと思ったのだろうか。 忌々しいロケットペンダントを持つ手が、震えていた。
「持たされてるの。 バカップルっしょ?」
体から力が抜けていくようなジョークだった。
中原は愛想笑いを浮かべて、窓の外を見てしまう。
「バカというか……クズ、だけどね」
彼女の静かな声は、きっとバスの耳障りな走行音に掻き消されてしまっただろう。
「やってらんないよね~」
「……ああ、確かに」
「…………ほんと、やってらんないよ」
小声と一緒に、我慢出来ず、涙が一滴零れたときだった。 バスが大きく揺れたのは。
最初にやってきたのは、恐怖だった。 中原の服の裾を掴んだが、衝撃によって二人はすぐに引き離された。
耳が聞いたことのないような破壊の音を拾いに拾い、視界はただの色の濁流と化し。
痛みが全身を襲った。
……人のざわめきと、蝉の鳴き声が聴覚の縁でさざめいている。
太陽が、白く茜を見下ろしている。
なんて、穏やかな気持ちなのだろう。 太陽を見上げながら思う。 痛みが体から、澱みを抜いていくようだった。
呼吸がこんなに心地のいいものだとは思わなかった。
「や……った」
茜は微笑んだ。
笑い飛ばしてやりたかったが、体が言うことを聞かなかった。
自分は救われるのだと思った。
この世の苦しみから解き放たれ、清浄なる大地へと行くのだ。
しかし、その前にやらねばいけないことがあった。
血が噴き出す腕に全ての意識を込めて、首元へ動かす。 そこから、あの呪いのペンダントを取り出した。
「やっ、と……」
想いを断ち切るように、ペンダントを抱き寄せる。
男の名前を呼ぶ。 呪いを掛けるように。
ペンダントを力強く引っ張る。
後頭部に金属が食い込んで微かな痛みを訴えるが、今の茜に恐れるものなどない。
憎悪と晴れやかな決別が、腕に力を宿す。
衝撃で傷ついたらしく、ペンダントが、容易く引きちぎれた。
なにも、死の間際までその顔を見ることはない。
「さよう……なら」
茜はまた微笑み、ペンダントを手放した。
視界から消えていく。
「あなたが……私よりも……ずっと、ず……っと、苦しんで……生きていきます、ように」
茜は満足げに呪詛を並べた。 きっと、この願いは届くと思った。
体が軽くなっていく。 自分の行く先が、少しずつ見えていく。
首を傾け、倒れ伏す中原の姿を見つける。 伸ばそうとした手は、遂に動かない。
口が動くが、音を紡がない。
(中原は、生きてね)
どこかのアニメのように、異世界に転生できたらいいのにな。
静かに雲を泳がせる雄大な空に祈る。
チートキャラでもいい、どこかの地味な街娘でもいい。 今度は、幸せに生きたい。
そして、もしそうなるのなら、せめて中原の思い出だけは持っていきたい、と思った。
彼女には、それしか思い出せる大切な記憶はなかった。 あの日々は、楽しかった。 何もない退屈な日々、それが一番幸せなことだった。
――転生できるのなら、彼がその先のいないことだけが残念だ。
そう思い、太陽に優しく見守られながら、彼女の意識は優しい暗闇の中に溶けていった。
☆
縛り付けられる意識。 茜の肌に無数の黒い触手が這い、身動きが取れない。
触れるたびに、黒縄 リリアの暴力的な思考と高笑いが頭の中に入り込む。
このままこんな拷問のような意識の上書きが行われ続けたら、きっと自分の意識はいつか消えてなくなるだろう。
だが、自分の乗り移った体が、今何をしているのかは分かる。
中原の口を押さえ、愉しそうに、本当に愉しそうに茜のことを聞かせている。
中原に何かをさせようとしている。
流れ込んでくる意識と記憶から汲み取るに、彼が駆った莫大な力を、もう一度使わせてようとしていた。 死ぬかもしれない代償を持った力を。
黒縄は真実にいくらかの嘘を織り交ぜ、中原を追い込んでいく。
罪悪感などまるで感じていない。
触手が茜の首元を絞める。 彼女は、歯軋りをして、吠えた。
「読んでたときから思ってたけど……ほんっっっっっっっとうに、最低な女!!!!!!」
茜の絶叫が、空虚な漆黒の空間に響き渡る。
彼女が怒りの雄たけびを上げると同時、中原の目が……強い憎悪に満ちた。