第七十六話『ニアミス その1』
「ダメです!! 待ってください!!」
看護師の声と器具が倒れる音、患者の悲鳴や唸り声。
蒼は刹那と顔を合わせると、携帯をしまって廊下に出た。
看護師がよろめいて手すりにもたれかかり、廊下の奥へと必死に声を掛けている。
長い黒髪の末尾が、階下へと消えていくのが見えた。
(今のは?)
「大丈夫ですか?」
看護師の腕を掴んで起き上がらせる。
遅れて、医者らしき人が駆けつけてきた。
「どうしたんだい?」
「先生! 302号室の患者さんが、目覚めるなり逃げ出してしまって……!」
「あの身元不明の患者か……」
身元不明。 その単語が妙な粘り気で蒼の脳裏にこびりついた。
階下へと走り去った黒髪が、蒼の中で宿敵と被さる。
「す、すみません。 その患者って、長い黒髪に、水色の目をしてませんでしたか?」
「そうだが……君は? もしかして彼女の知り合いかい?」
医者は訝しげな表情で蒼を見下ろす。
やはり、今の人影は黒縄 リリアか。
だが、何故だ。 冥花先生も、黒縄は確実に死んだと言っていたはずだ。
考えを巡らせたとき、蒼は心のどこかにある何かが強烈に引っかかったのを感じた。
知り合いか。 その質問に、蒼は頷き、情報を求める。
「彼女はいつここに?」
「確か、二ヶ月ほど前だったはずだよ。 そうだな……ちょうど、そうだ、聖雪の子たちがテロリストに狙われたことがあっただろう? その翌日の深夜だよ」
死体安置所から彼女が消えた直後だ。
「彼女は誰かに連れられてここへ?」
「いや。 一人だったよ」
死体がふらふらと一人で出歩いて今の今までここで治療を受けていたとでもいうのか。
蒼の額に汗が滲むが、理由が分からない。
「彼女に何があったか分かるかい?」
「いえ……」
「本当に驚いたよ。 胸に穴が開いてたんだからね。 それに、回復力も凄まじくてね」
それは、蒼が刻んだ致命傷だ。
蒼は心の中にある答えを求めるように、顔をしかめて胸を押さえる。
「あの日は病院も大騒ぎだったよ――――何せ、彼女の容態は、もう判別不能に近かったからね。 手術室に運ばれてきたとき、“死体が運ばれてきたのかと思ったよ”」
蒼の体が、凍る。
医者の言葉に、蒼の中の答えが顔を見せたのだ。
この世界で、死んだ人間が生き返るなんてことは絶対にありえない。
だが、一つだけ、この世界で起きた蘇りがある。
答えは、蒼の中に――いや、蒼自身が答えだった。
『いやぁ。 見事な快復ですね。 正直搬送されてきたときは、亡くなった方が運ばれて来たのかと。 生き返ったようにすら感じます』
「そんな……」
冷え切っていく体。
蒼がこの世界で二度目に目を覚ましたとき、医者が笑いながら言った言葉が脳裏で反響する。
黒縄に起きた状況は、それでしか説明できない。
(俺以外にも、誰かこの世界に……?)
この世界を観測、俯瞰できる世界からの異世界転生。
よりにもよって、その魂が向かった先が、黒縄の死体だったとでもいうのか。
「あ、君!!」
医者が蒼に声を掛けるのを無視して、蒼はあの艶やかな黒髪を追いかけた。
階段を三段飛ばしで駆け下り、ざわつく受付を抜けて猛暑の中に飛び出した。
暑さに関係なく汗が止まらない。
嫌な予感がする。
誰かが、蒼と同じようにこの世界に来てしまった。
一体誰が?
そう考えたときに、胸の奥がざわつくのだ。
彼女は病衣を着ているはず。 こんな都会にいれば目立つに違いない。
辺りを見渡し、ときに通行人に尋ねながら、彼女の足跡を追う。
十分ほど灰色の迷路を進み、見つける。
病衣を纏い、弱々しくも焦燥に駆られながら走る黒髪の少女。
覇気も、狂気もない、追い詰められた少女の顔を見て、蒼の心臓が跳ねた。
「待ってくれ!!」
蒼が、声を掛けた瞬間だった。
今まで聞いてきたものとは違う、心臓を鷲掴みにするような不気味なサイレンが街に轟いた。
『緊急警報!! 緊急警報!! 『不干渉毒野』に歪みを確認!! “Aランク”『トウカツ』発生の予兆あり!! 現界予想場所は奥多摩ニューシティG―23!! 奥多摩ニューシティ全市民は速やかに近くのシェルターへの避難を開始してください!! 繰り返します――』
「Aランク!? こんなときに……っ!!」
蒼は歯噛みする。
Aランク『トウカツ』。 『都市殲滅級』と謳われる災厄だ……原作でももっと後半に行かなければ顔を見せないはずの存在が、何故今現れるのか。
空に単色の赤いカーテンが掛かり、街が一瞬でパニックに陥る。
逃げ惑う市民の体が蒼にぶつかる。 黒縄が辺りを見渡しながら走り去っていく。
「クソッ!!」
乱暴に吐き捨て、群集の波を押し分けて進む。