第七十五話『送れてないメール』
刹那は側に置かれた漫画を手に取る。
「私さ、少女漫画とか全然読まなかったんだけど、結構面白いね」
蒼に一冊の少女漫画を手渡してくる。
この世界の漫画は前の世界にあった漫画をもじったようなものが多い。
それは、前世で見たことがある漫画とそっくりだ。
「男の子と女の子が、お互いを想うが故に喧嘩して、離れ離れになってしまうの」
彼女の口にした物語の始まりは、誰かの辿った道に似ている気がした。
「でも、ほんとはちっとも嫌いになんかなってなくて、二人はお互いのことを想い続け、そして……すれ違い続ける」
蒼は漫画に目を落とし、ページを捲る。
涙を流している目の大きな少女。
共鳴する心臓が、とくん、と静かに動く。
「ある日。 男の子が遠くに行ってしまうことになったの。 女の子が勇気を出して、仲直りのメールを送ろうとするんだけど……どうしても、送信ボタンが押せなかった。 相手を想う気持ちが、もう一度相手を傷つけることへの恐怖に変わってしまって……」
喉がつかえる。
老人の緩やかな問いに優しく答える看護師の声、誰かの見舞いに来た少年少女が身内同士で静かにと伝え合う声。 穏やかに過ぎていく昼。
刹那は言った。
「その二人……どうなったと思う?」
「……。 分からない。 別々の場所で、お互いがお互いのことを忘れて、大人になっていく……とか」
窓の外を見つめながら首を横に振る。
そして、刹那がそれを口にしたとき、蝉の鳴き声すら、消えてしまうようだった。
「男の子の方がね……死んじゃうんだ。 彼女のことを想い続けて、大きすぎる愛が忘れられなくて、疲弊して、不注意で道に飛び出してしまったの」
横たわりたくなるような虚脱感が、蒼の体に沁みていった。 手から零れた漫画が、地面に落ちて潰れる。
「もしあのとき、メールの送信ボタンさえ押せていれば……こんな結末にはならなかったのに、って。 凄く切なくなって、たくさん泣いちゃった」
ゴミ箱の中身が目に入る。 丸められた大量のティッシュが、放り投げられていた。
刹那の緑の澄んだ瞳が、蒼を見る。
「小波…………何か、送れてないメールが、あるんじゃないの?」
周囲の音が意識の奥へ奥へと遠ざかっていく。
蒼と刹那の視線が絡み合い、ほどけることなく結ばれる。
蒼は、小さく笑った。
「……刹那は、すごいな」
「ふふ。 小波とは、長い付き合いだからね」
照れくさそうに、彼女は布団に体を投げ出した。
蒼は椅子を引き寄せて、刹那を覗き込む。
「その女の子の方に、俺は似てるかもしれないな。 実は、俺の携帯の中に、伝えたい気持ちが、ずっと眠ってる」
「それ、送らないとダメだよ。 ルイちゃんだって、小波のことをずっと気にかけてる。 今でも、大好きなんだと思う。 二人とも、今すごくしんどそう。 どっちが、その本の男の子になっちゃうか、分からないよ?」
刹那は力強く蒼を諭す。
蒼は頷きながら、でも、と頼るように刹那に言う。
「どうしても、怖いんだ。 あの日見た彼女の涙が、本当に、本当に……辛かった。 俺が彼女に気持ちを伝えることが、自己満足で自分勝手な気がして……また、彼女をあんな風に、泣かせてしまったらと思うと……」
「大丈夫」
蒼の迷いを払うような、優しくハッキリとした声だった。
刹那は腕をもたげ、蒼の頬に手を置いた。
「その本の二人と、小波では決定的に違うものがあるの、何か分かる?」
「……分からないな」
「本の中の二人にはね、頼れる人がいなかったんだ」
蒼の頬に触れる手が力むのが分かった。
「でも、ルイちゃんと小波は違う。 私がいる。 朱莉ちゃんがいる。 霧矢も、セナちゃんも、ミミアちゃんも、如月くんも、琴音ちゃんも。 私たちが、二人の側にいるよ」
だから、大丈夫。 もう一度、彼女は言い切った。
「もし、その先に苦しい思いがあったとしても、私が側にいて、守るよ。 二人のこと」
「……刹那」
「だから、自分のしたいと思うことをすればいいんだよ。 そんな小波に、私は憧れたんだからさ」
頬に添えられた手が離れた。
刹那は頬を桃色に染めて蒼を見上げる。
刹那の言葉が、優しく背中を押してくれたように思う。 今なら、秘め続けたメールが送れる、そう思えた。
蒼の笑みを見て、刹那はニッと笑った。
「もしかして私、凄くいいこと言ったかな? ちょっと臭い台詞だったかも?」
「ものすごいいいこと言ってたよ。 どうやって感謝したらいいか分からないくらい背中を押してもらったし、心強い」
「よかった! ……あー、こんな格好じゃなければもっとかっこよかったのにな~」
刹那は忌々しそうに折れた足を睨みつける。 それから、二人で笑った。
蒼は携帯を開き、画面を見つめた。
『突然ごめん。 よかったら、会って話がしたい。 都合つくかな』
ずっと保存し続けたメッセージ。
刹那が蒼を見守ってくれている。 一歩踏み出す勇気が、湧いた。
指先が送信の画面に触れる。 ……しかし、その、一瞬前の出来事だった。
短い悲鳴が、病室の外で上がった。