第六十六話『共に生きるものたちを、守りたい』
蒼の気持ちは、暗いままだった。
以前に比べて空が青く見えない、そんな曇った感情がずっと渦巻いていた。
夏休み真っ只中、リハビリに励む日々。
ルイのことはそう簡単に忘れることはできなかった。
二つの人生を跨いだ恋だ。
一日やそこらで忘れろというほうに無理がある。 まだまだ伝えたい想いがたくさんあった。
想いの逃げ場がなく、胸の中で破裂しそうになる。
そんな濁った日々の中、蒼は冥花先生に呼び出されて都内のとある死体安置所につれてこられた。 入り口には生々しい血の跡が大量にこびりつき、白線が人間の力なく倒れた姿を象っている。
一つだけ開いた冷却室の引き出し。
凄惨な殺戮現場に、蒼は顔をしかめた。
しかし、学生をこんな場所に連れてくるとは。
「先生。 こんなところでタバコはやめたほうが……」
「鑑定は全てとっくに終わっています」
「そういう問題なんでしょうか。 しかし、ここは……?」
蒼は自分がここに連れられた理由が分からずにタバコをふかす冥花先生に尋ねる。
「ここは、黒縄 リリアの死体が安置されていた場所です」
「え、ここが?」
「あなたが病院に搬送された翌日。 彼女の死体が消えました。 そこの二つの遺体は、シュゴウによるものです」
蒼は首を傾げる。 死体など持ち帰って何になる。
いくら無茶が通るこの世界でも死んだ人間を生き返らせるのは不可能だ。
「シュゴウの目的は何です?」
「私たちも何かしらの目的でシュゴウが彼女の死体を持ち帰ったのだと考えました。 現に、一ヶ月前奥多摩FND支部に保管されていた黒縄の『毒神具』がシュゴウにより強奪されています。 その二つを合わせて何か企んでいるのかと。 しかし、鑑定を進めていると、妙なことが分かりました」
「妙なこと?」
「ええ。 黒縄のゲソ痕……足跡です。 彼女の足跡が、“一人で奥の扉に向かっていました”」
素っ頓狂な声が出た。
死体が一人で勝手に歩くわけがない。
「引きずられた跡もありません。 ごく自然に、人間が一人で歩いた足跡です」
「そんな! だって黒縄はこの手で!! ルイの体からも毒は消えてるはずです!」
「早乙女さんに事情を聞き、彼女の体から毒が消えたことは確認済みです。 何より、黒縄の死亡は我々で確認しました。 万が一にも生きていたということはない。 しかし、彼女が独りでに歩いてどこかに消えたことは、紛れもない事実です」
人を殺めた不気味すぎる感触は、悪夢としてうなされるほどに手にこびりついている。
そんな思いをして、殺し損なったわけがない。
思考を加速させるが、答えは出てこなかった。
やがて、彼は答えを求めることを放棄した。
いくら考えても、答えは出ないだろうと。
代わりに、彼はペンキのように乾ききった血溜まりを見下ろす。
おそらく、シュゴウにあっさりと殺されたのだろう。 蒼の手が拳を作る。
「殺された彼等に、家族は?」
「いましたよ、それぞれに子が一人。 痛ましい事件です」
蒼の手にさらに力が篭る。
朱莉の言っていたこれから先の人生が、見えた気がした。
「先生。 俺は、残酷だったと思います」
「はて。 その根拠は何です?」
「俺は、アニメに描かれる戦争の隅っこで戦う人々の死に何の感情も抱いてこなかった」
「……至って自然なことだと思いますが」
「そうです。 でもそれは残酷だ」
蒼は血の側まで歩き、屈んで乾いた血の上を撫でた。
「俺はモブとして生まれました。 一歩間違えば『トウカツ』に一振りで殺されていたかもしれない。 でも、俺にだってかけがえのない家族がいる。 メインキャラがメインキャラの死に絶望するように、俺だって自分の大切な人を奪われたら、怒り狂い、悲嘆に暮れるでしょう。 命は平等なんです。 誰にだって地を這いながら必死に生きてきた人生がある。 愛すべき家族や恋人がいる。 モブとして生まれ、モブとして大勢の裏方を担う人々に関わって、よく分かりました。 俺には、この世界にある全てが同等に尊く重いものだと思えます。 街行く主婦も、画面の端で見切れたモブも。 だからこそ」
「……」
「許せないんだ。 そんな彼らを、ゴミのように殺す連中が。 その大罪を大罪とも思わず生きている奴が」
蒼は冥花先生に振り返る。
「俺、FNDに入りたいです。 これ以上、物語のために誰も殺させやしない」
「…………。 いい覚悟です。 今の若者には、あなたのような意志が足りない」
冥花先生は笑い、蒼の肩を叩いた。
「ただ、まずは、そのひょろひょろになった体を鍛えなおしなさい」
蒼は力強く頷いた。
翌日、蒼は琴音に数ヶ月遅れで返事をしに行った。