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第五十八話『蝉の鳴く日に』

 花の香りがする。 空気を吸い込むのが久しぶりな気がした。

 人工呼吸器の中は、少し窮屈だ。 日差しが右から当たっているのが分かる。 窓際で花を入れ替えている人の息遣いから察するに、朱莉だろうか。


 気を失う前の最後の記憶を辿りながら、蒼は朱莉に声を掛けた。



「花……ありがとう……」

「蒼!?」



 やはり朱莉だった。

 駆け寄ってきて、朱莉は蒼の手を握る。



「蒼、聞こえる!? 私だよ! 待っててね、今先生呼んでくるから!!」



 病室が騒がしくなる。 看護師や医師が脈や意識を確認しに何度も声を掛け、点滴を取り替えられ、痛む筋肉に呻いている間に二時間近くが過ぎたようだった。


 放送で誰かを呼び出す声が聞こえる。 外からは蝉がしきりに何かを叫びかけている。


 心臓モニターが定期的にビープ音を鳴らし、右腕には点滴注射の鈍い痛みが、右手には甲斐甲斐しく手を握る朱莉の感触がある。



「今はもう、七月です」



 かすかに、タバコの臭いがする。 窓の外に向かって冥花先生がタバコをふかしているのだろう。


 蒼は、自分が二ヶ月も眠っていたことに驚いた。 どうりで蝉がうるさいわけだ。



「運ばれてきたときのあなたの容態は最悪。 死体が運ばれてきた方が遥かに始末に負えると医者が匙を投げそうになっていましたよ。 まともな鍛え方をしなかったら、即死してたでしょうね」



 冥花先生の言葉は、明らかに蒼を糾弾するものだった。 朱莉の手に力が入る。



「あなたのしたことを一言で言うなら、バカ、ですね」

「……命令に背いて、すみません」

「ええ。 あなたのお父さんに一生分は叱られましたよ。 私の監督不足なので、それは甘んじて受け入れましょう。 問題は、もう一つ。 バカというより、大愚と言っていい」



 冥花先生が深く息を吐く。 煙を吐き出したのか、ため息なのかは分からない。



「あの力は、それだけで相当の負荷がかかります。 命を削って戦うようなもの。 諸刃の剣と謳われ、国際法で禁じられている『対剣』と併用するなど、自殺行為以外の何者でもない。 狂気の沙汰です」

「でも、黒縄は斃して、彼女の未来を救うことはできました」

「ええ、あなたの人生を犠牲にしてね」

「自分を犠牲にしたつもりはありません。 ぼくは生きるために努力をしてきたんです」

「……さっきから私と目も合わせられない人間に、そんなことを言う資格はない」



 ドスの利いた声だった。

 蒼は朱莉の手を強く握ってしまう。



「その目、見えていないんでしょう。 さっきから私の隣ばかり見て」


 蒼は押し黙る。 それは事実だった。

 蒼の視界は、ブラックアウトして何も見ることが出来ない。



「手足の震えで、まともに歩くことも出来ないでしょう」



 今度は朱莉が蒼の手を強く握る。 蒼の手の震えを一番強く認識しているのは、朱莉だろう。



「……威かしすぎましたね。 一生そのままというわけではないですよ。 リハビリをすれば目も見えるようになるし、歩けるようにもなります。 ただ、あなたは、もっと自分を大切にすべきです。 いくら自分の好きな相手を助けるためとはいえね。 あなたの人生は、あなただけのものではない」



 足音が右から左へと流れていく。



「それと、これは忠告です。 完治までは半年掛かるそうですが、それまでに『対剣』もしくは『堕天狂化』を使おうものなら、死にますよ。 まぁ……もうあなたには斃すべき敵もいないでしょうがね。 それでは」





 両親が見舞いに来て、目が覚めたのを喜んだのもつかの間、病院の関係者が慌ててとめに入るほどの叱責を受けた。


 それから一月、朱莉は毎日見舞いに来てくれた。

 学校のある日でも欠かさず通ってくれ、リハビリにも献身的に参加してくれていた。 夏休みに入ろうものなら朝から夕方まで側にいてくれて、色んな話をしてくれる。


 刹那に霧矢はもちろんのこと、クラスメイトも暇さえあれば顔を見せてくれた。


 琴音やミミア、そして意外なことにハヤトもしばしば顔を見せてくれる。


 ただ、ルイだけが来なかった。 時は八月、物語は二巻の中盤ほどだろうか。

 刹那にそれとなく聞いたが、どうやら朱莉が何度も訪れたルイを門前払いしているらしかった。


 退院の日がやってきた。

 視力は見えるものの格段に悪くなり、今は眼鏡を掛けている。


 手足には未だに上手く力が入らない。

 手足の震えも少しは楽になったが物を取り落とすことは頻繁にある。


 蒼は制服に着替えながら、変わり果てた自分の姿を鏡で見た。

 真っ白に染まってしまった髪の毛。 目は水色に濁り、筋肉は削げ落ちている。

 酷い有様だ。


 緩くなったズボンのベルトを締めているときに、机の上に置かれた携帯が鳴った。

 震える手で携帯の電源を入れる。 ルイだった。



『退院できてよかった。 話がある。 今日の午後八時、奥多摩ニュータウン駅すぐ側のコスモタワー14階のレストランに来てほしい。 体の調子が悪いなら、断って』



 時間を掛けて、ゆっくりと文字を打つ。



『ルイからの誘いなら、たとえ四肢がもげても行くよ』


笑えない冗談だと思った。

 病室に朱莉がやってくる。

 携帯の電源を落としてから、二人は寮へと戻った。


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