第四十九話『二度目の、告白』
白い天井。
まだ体が重いが、寝覚めはよい。 ルイの好きな消毒薬の匂いがする。
柔らかな感触に背中を預けている。
ベッドの周りは仕切りに遮られ、閉じ切っていた。
そこに昼下がりの緩やかな陽射しが映り込んでいる。 隣を見れば、椅子がベッドの側に粛々と寄り添っていた。 誰かが座っていた跡がある。
丁寧に、ルイの靴が揃えられていた。
靴を履き、仕切りを開けた。
どうやら、学校の保健室のようだった。
机の上には読んでも理解できない書類や本が散乱し、その隣でサボテンが窮屈そうにしている。
廊下にも、他のベッドからも人の気配はない、静かだ。
ただ一人、小波 蒼だけが窓の外を見て立っていた。 ルイは自分が険しい表情で彼を見ていることを自覚していた。
「傷の具合はどうかな」
小波は外を見ながらそう尋ねた。
「そんなことより、教えなさい。 どうしてあのことを知っているの」
「あのことって、どのことかな」
小波はルイの目を見る。
同い年には見えない、少し大人の世界に足を踏み入れた青年のような眼差しだった。
「ルイが、9年前にCОDE:Iの襲撃を受けたこと? そのときに黒縄 リリアに襲われたこと? ハヤトがルイを助けてくれたこと? それとも、完全には助けきることが出来ず、今もその毒が体内に残っていること?」
「何故……? セナとハヤト以外、知っているはずがないわ」
ルイは瞬きも忘れて蒼に問う。
セナかハヤトが小波に言ってしまったのかと思ったが、細部を知りすぎだ。
少年は顎に手を当てて、また窓の外を見た。
「その質問に答えるのは難しくない。 でも、その答えは、ルイには信じられないかもしれない。 それでも、聞きたい?」
「……ええ。 教えなさい」
ルイは彼の意味深な言葉にあまり時間を要さずに答えた。
前々から小波 蒼という人間に感じていた違和感……何か、他の人間とは違う感覚
。
その正体が、彼のいう答えにあるのかもしれない。 それは、彼がルイの過去を知っていることと同じくらい気になることであった。
「分かった。 俺も……このことを話すなら、ルイに一番最初に打ち明けたかったから」
小波はルイをベッドに促す。
ルイが腰かけてふかふかのマットレスに尻を沈めている間に、小波は本棚を物色する。
そこから彼が取り出したのは、保健室の主の趣味だろうか、純文学の本だ。
「本は読む?」
「……? ええ、たまにね」
ルイは脈絡のない質問に首を傾げつつも答え、手渡された本を受け取る。
中を開く。 難解な味の深い文章が訥々と並び、文字で埋め尽くされたページ。
何の変哲もない、純文学といったところだ。 何故これを?
「結構昔のことだけど、中学のころはよく読んでたよ。 こんなにしっかりした本じゃないけどね」
一年前まで中学生だったのに結構昔とは。
だが、彼の大人びた視線を見ていると、軽々しくそうは言えなかった。
「ルイはさ、こういう本の中で、会いたくなった人とかって、いる?」
「ええ……そう、ね。 少しは、あったかも」
思い出を振り返りながら、ゆっくりと答える。
子どもの頃、両親に読み聞かせてもらった絵本が真っ先に思い当たった。
どこか遠い星からやってきて、帰り道を探す王子様の話。 母親に抱きしめられながら読み聞かされたその少年の旅路に、何かときめくものを感じたのを覚えている。
そこまで考えて、今の両親の冷たい視線を思い出し、曇った感情が沸き上がる。
「俺には、どうしても会いたかった人がいた。 それはもう、誰に笑われたって、恋だったよ……決して届かない恋。 彼女がいる本は何度も読み込んだよ。 いつかこの指が、本に沈み込んでその世界に入れることを願って」
「意外とロマンチストね」
「そうかな。 でも、その本の壁は何よりも厚かった。 俺がどれだけの恋情を持っても破れない壁。 その表面に触れることしか俺には出来なくて、彼女はいつも本の中で笑い、悲しみ、強く生きていた。 もどかしい恋だった。 会話をすることも出来ず、ただ、与えられるものを見るだけ。 妄想の中で何度も彼女とは会ったけど、どこか薄くて、淡い仮初の非現実。 とても魅力的なだけに、彼女に会えないのは辛かった。 そう、ルイと同じくらい、素敵な人だった」
小波は郷愁に満ちた目をページの上に向けて手で撫ぜる。
ルイはくすぐったい思いをしつつ、彼の言う想い人のことが少し気になった。
聞かずとも、彼はその少女のことについて語る。
……ルイの目を、しっかりと見ながら。
「その子は、自分の不幸な境遇にもめげず、強く生きていた。 意地っ張りだけど、本当は誰よりも優しくて、強くて、友達を大切にしてて、周りのことを考えてて、使命感があって、強い意志があって、一途で、思いやりがあって、努力家で、でも誰よりも傷つきやすくて、繊細な子。 自分の一番好きな人にも隠して、読者だけに見せた彼女の生き様は、温く生きていた俺には、すごく眩しく映った。 その子のことなら、何でも知ってる」
何故か、セナがルイを抱きしめて言った言葉を、思い出す。
それはまるで、ルイのことを言っているようで――
「いつも不機嫌そうにツンとした眉に、勝気で、空よりも鮮やかな青い瞳。 口元はいつも引き結ばれているけど、時折見せる笑顔は誰よりも華があって、その金色のツインテールは獅子の鬣よりも気高い。 俺には、世界に愛された銀髪の天使よりも、その子の方が美しく思える」
琴音の顔が頭に過ったのは、どういうわけなのだろう。
ルイは目を見開いて、小波の真摯な瞳を見返した。
彼は……最初から、彼の目の前にいる人間の話しか、していなかったのだ。
「いつの間にか俺の方が年を取ってたけど、そんな折に、信じられないことが起きたんだ」
静かな空間だった。
彼の声と息遣い以外、何の音もしない。
「気が付いたら、彼女と同じ世界にいた。 俺は何も特別なものをもっていなかったけど、同じ世界にいられるなら、越えられない壁なんてない。 だから、世界の隅っこから、世界の中心にいるその子に、会いに来たんだ」
ルイの呼吸すら、止まったようだった。
「そして、その子は今――目の前にいるんだ」
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