第二十六話『堕天狂化』
時代は常に進む。 文明は進化する。 歴史は踏み台になり、過去は未来に劣る。
同じだ。 物語は前へ。 そして、力は強くなる。
主人公は戦い、敵を倒す。 新たな戦いが幕を開け、新たな強敵が姿を現す。
その強敵が、前に主人公に倒された敵より弱いはずがない。
物語は、そうやってインフレーションを起こすのだ。
ある日、『外れ者』の限界を知った小波 蒼。 しかし、彼は、モブに生れ落ちながら、ただ一つだけ、特別なものを持っていた。
それは、物語のその先を知っているということ。 彼は今から二年先までの物語を熟知していた。
二年後には、容易く地図を書き換える天災クラスの強敵が何人も現れる。
彼らは圧倒的な『煌神具』の力で主人公の前に降臨するが、ときに『煌神具』という設定に肉付けする形で強力な力を得たものがいる。
例えば、『対剣』。 『煌神具』を二つ装備することによって、さらに大きな力を与えるものだ。 だが、相当に鍛えていなければ二つの力を発動させることはできない。
例えば、『毒神具』。 『聖素』から作られる『煌神具』に対し、『トウカツ』を構成する『死素』から作られた装置だ。 力はすさまじいが、精神は汚染され、狂人と化す。
そして――
「その右手、見せてください」
「……はい」
冥花先生が促すまま、糸に吊られたように蒼は右手をテーブルに乗せた。 右手には、指ぬきグローブがしっかりと嵌められている。
冥花先生の手を煩わせるのも忍びない。 元よりこうなることは分かっていたのだ。
そう考え、蒼は自らグローブを外した。 その手を見つめながら、冥花先生は言う。
「……あなたはあのとき、『堕天狂化』と口にしましたね。 それは、私が名付け、『トウカツ』以外の前では口にしたことのない言葉。 あなたは、私からそれを盗んだ。 一体どうやって盗んだんですか? それは、学生が思いつくような力でもなければ、人間が気軽に手を出していい力でもない」
蒼は口を噤みながら、自身の手の甲を見た。 水色に変色した手の甲。 手のひらも同じように変色していた。
……それは、『堕天狂化』と名付けられている、羽搏 冥花だけが使っている力。
イヴェルシャスカの槍は、『死素』と『聖素』という力に枝分かれする前の、水色をした『真空素』という未知のエネルギーの集合体を纏っている。
『真空素』の持つエネルギーはすさまじく、それに近づくことは研究機関の関係者以外は固く禁じられている。
『堕天狂化』とは、枝分かれする前の『真空素』を体内に取り込み、コンパスに磁石を近づけると機能が暴走する要領で、“使用した『煌神具』をバグらせる”、というものだ。
『真空素』は並々ならぬ力、制御できなければ一瞬で命がもぎ取られる。 しかし、暴走した『煌神具』の力は大地を轟かすほどのものだ。
蒼は、物語の後半で現れるその力を、本人以外でこの時点で知っている唯一の人間であった。
天井にぶつかった蒼は、その力を欲したのだ。 蒼の右手には、イヴェルシャスカの槍の小さな小さな欠片が埋め込まれている。
「それに、あなたの『堕天狂化』は未熟です。 その腕輪で、辛うじて『真空素』の力を制御しているに過ぎない」
冥花先生の瞳を見る。 彼女の、水色の瞳。 そこに今、制御下に置かれた『真空素』が滞留している。 彼女はイヴェルシャスカの槍の一部を喰らい、その力を左目に集めて制御しているのだ。 戦闘時だけ、その力を解放して敵を殲滅するために。
正直言って、人間のなせる業とは思えない。 自分の体の一部でもないエネルギーを左目に集めて制御下に置いて抑え込むなど、今も辺りを舞っている煙を手のひらの上に集めて自由自在に操るようなものだ。
対して、蒼は右手につけた腕輪で『真空素』の力を弱めているに過ぎない。 彼が身に着けているのは特注品で、『真空素』の影響を弱める防護服の技術を転用したものだ。
腕輪の値段は優に百万を超える。 蒼は、違法な地下闘技場でこれを手にするための戦闘を幾度となく繰り返してきた。 犯罪になろうが、止まるわけには行かなかった、それだけの話である。
蒼は、冥花先生の顔を強く見返した。 正直に話すか、誤魔化すか。
前者は、正直に言ったとて、信じてもらえるとは思えない。 後者は、出し抜けるほど、冥花先生は甘くない。
結果、蒼の選択は中途半端ではあったが、最善であった。