第百二話『並び立つ』
背後から自分の体の何倍も大きな手に押されているかのような推進力が圧し掛かる。
『堕天狂化』や『対剣』を使わなければ辿りつけなかった境地。
色彩豊かに花開く視界は、遥か高嶺の花だけが咲く花畑に足を踏み入れた実感を心に宿す。
剣を振り上げる。
力任せに、叩き付けた。 まだ際限なくあふれ出す力に振り回される蒼にはそんな単純な立ち回りしかできないが、予想に反してそれは鋭い一撃を成す。
しかし、その程度を見切れない黒縄 リリアではない。 水平に構えた刃で、受け流すでもなく腕っ節だけで蒼の一撃を防いだ。
「ッ!?」
止まらない推進力。
体がふわりと持ち上がり、毒液が体に触れるよりも早く、蒼の体は吹き飛び――ハヤトへと突っ込んだ。
「おいバカ!!」
ハヤトの短い悲鳴の後、もつれ合う二人の少年。 衝撃を殺すように抱き止められたおかげか、痛みはない。 ハヤトが蒼の下敷きになっている。
「……っ、すまん」
「はりきり過ぎだって言っただろうが……」
勝手が分からない力故に、加減が分からない。
謝りつつ、ハヤトの手が蒼の胸元に添えられているのに気付き、そういうところだぞと蚊を落とすときのようにハヤトの手を叩いた。
琴音が蒼に手を伸ばす。 口元には笑み。
手を掴むと、細腕に似合わない腕力で持ち上げられ、蒼はすぐに起立した。
ありがとう、そんな短い言葉だけを交わし、黒縄へ向き直った。
「俺も起こしてくれよ……」
「そんなことを言う余裕があるなら大丈夫でしょう?」
ハヤトが立ち上がったと同時、バチンと、雷が弾ける音が鳴った。
ルイが蒼たちの側まで飛びのいてくる。 地面と擦れた足が青い火花を散らし、ルイは舌打ちした。
哄笑と共に、黒縄の周囲に毒沼が形成されていく。 触手たちが鎌首をもたげた。
「あの毒の沼、厄介すぎます。 あれでは近づけない」
「…………如月、悪いがちょっと力貸してくれないか」
蒼はハヤトに目配せをする。 ハヤトは蒼を数秒見つめてから、深くため息を吐いた。
「何なんだよお前、何でもお見通しか?」
そうぼやいてから、彼はぶつぶつと何かを唱え始めた。 体を白い光を覆い、足元に幾何学的な模様が刻まれていく。
「『護れ、閉ざせ、拒絶し、降り注ぐ災禍を払い、切り開け』」
完成した魔法陣が広がり、四人の足元へと広がる。 蒼たちにも体を白い光が這い上がっていった。
これは、作中でハヤトが黒縄と対峙するときに使った、というより使うしかなかった、第八階梯魔法……『絶対防護体勢』。
その名の通り、防御魔法における最高位、ほぼ全ての外的障害から身を護るものだ。 もちろんハヤトであっても長時間の持続は難しいだろうが、原作で彼はこの魔法を使って幾度となく黒縄に挑んでいた。
ルイが自身にまとわりつく光を見て言う。
「これは?」
「これでアイツの毒は無効化できる。 あの毒沼に足を突っ込んでも大丈夫なはずだ。 でも喰らい過ぎるなよ。 回数喰らえば剥がされるからな」
黒縄はその様子を見て口元を三日月のように歪める。 自分が劣勢に追い込まれようとしていることなど気にも留めていないように。
……いや、と蒼は考え直す。 実際、劣勢になどなっていないのだろう。
ハヤトたちはこの魔法で何度も黒縄に挑んできた……裏を返せば、“あの強力な毒を無効化してなお、ハヤトは黒縄に勝てなかった”ということである。
そう、彼女の強さは、そのあまりに致死性の高い毒だけに由来するものではない。
黒縄は片手を横に伸ばす。 今度は、触手ではないものが毒沼から顔を出した。
思い出すのは、キュクレシアスのテロが起きたときに裏であった沼での戦闘。
沼から鎧を纏った兵士たちが現れた、あれと同じである。
とはいえ今度のは、鎧の中身が骸骨のようだが。
漆黒の鎧は、内側の空間を持て余して不愉快な金属音を立てている。 剣を持つ手も、蒼たちを敵と認識する顔面も、骨しか残っていない。 ただ、眼下の奥深くの深淵から、蒼たちを覗く殺意があった。
黒縄の傀儡たちが際限なく沼から湧き出し、隊列を組むことなく蒼たちへ向けて出鱈目に走る。 見た目は脆そうだが、あれでも『鎧滅』の『毒神具』を使ったものたちと同等の力を持っているはずだ。
「いいわねぇ。 毒で簡単に死なれちゃ、面白くないもの」
骸と触手の軍勢を前に、蒼たちは構えた。