第百話『華やかな世界の……モブ?』
極限まで高められた集中力は、心地がよい。
視界は透き通り、必要な音は自然と脳に染みていく。 瞬きも忘れて見据える敵の姿は、その指先の動きすら見える。
細く浅い呼吸と体を巡る熱は、より素早く体を動かす潤滑油。
膨大な情報を処理する中で、琴音はその中の一つの情報に耳を傾ける。
対峙する相手が、今の自分よりも圧倒的に格上であるという判断だ。
筋肉を奮い立たせ、琴音は斧を振るう。 切り口の何倍も巨大な赤の旋風が生まれ、沼から這い出た触手を斬り倒す。
琴音は誰にも聞かれないように喧騒の間隙に舌打ちした。 朱莉はもう戦闘圏から離れた場所で事を見守っている。
未だに、琴音は黒縄に有効打を出せていない。 それも、黒縄の足元に広がる沼のせいだ。
あの沼に足を踏み込もうものなら、一瞬で命を落とすことになる。 故に琴音は遠距離から撃ち込むしかないが、それは沼の底から無尽蔵に溢れ出る触手が悉く盾を成して防ぐ。
さらに触手の猛攻は凄まじく、切断すれば毒液を撒き散らす。 手数の少ない琴音とは相性が悪い。
あれらを大量に生み出す疲労や『毒神具』の精神汚染を全く感じさせず、黒縄はうっすらとした笑みを浮かべている。 ……いや、精神汚染の末路が、あの嗜虐的なサディストの戦闘狂を生み出したのだろうか。
「今だったら、逃げても見逃してあげるわよ。 もっと強くなってからおいでなさい」
「……ここで逃げるなら死んだほうがマシです」
「堅物ね」
細く息を入れて斧を構える。 瞬間、触手たちがのた打ち回り、崩れかけたビルを幾度となく叩きつける。
ガラス片と瓦礫が豪雨の如く降り注ぎ、視界が眩む。
地面を這いながら前方より肉薄する触手の群れを視認。 筋肉が軋み、薙いだ斧の生む赤の風がそれらをなぎ倒した。
深い集中が、時間すらを遅延させ多くの情報を一瞬で処理する。 導いた読み、それは黒縄が背後に回っているといものだった。
「そんな下らないプライドのせいであっさり殺さなきゃいけないこっちの気持ちにもなってよッ!!!」
しかし、例え読みきったとしても、体が追いつくころには琴音は黒縄の射程内に押し込まれている。
水色の瞳が、すぐ側で嗜虐に歪む。 その両手から生える禍々しい双剣が素早く切りかかった。
「く……」
柄で二本の凶刃を防ぐ。
彼女の研ぎ澄まされた視線は、遅延した時の中で激突した瞬間に飛び散った漆黒の液体の一つ一つを認めた。 苦渋の選択ではあるが、琴音はすぐさま自身の得物を手放して後方へと飛びずさった。
……背後から、触手が迫る気配がする。
(囲まれた)
ご丁寧に左右からも気味の悪い触手を忍ばせていたか。 触れたら即死を招くものどもに囲まれたとなれば、都合が悪い。
極度の集中下でも、最適解を導くのに手間が掛かる。
「『青龍よ……その大いなる姿を現し、我が眼前の敵を祓え』」
そんな彼女の思考よりも素早く、少年の呪文が琴音の嗅覚に入り込んだ。 自分の表情が明るくなったのが分かる。
「『穿て、青龍』!!」
空を見上げた瞬間、琴音に迫る触手たちが真上から迫る青の焔に、押しつぶされた。
悲鳴のような音を上げながら、触手たちが消し飛んでいく。
閃光が街を覆い、毒液もろとも焼き尽くす。 琴音もその光に飲まれそうになるが、誰かの力強い腕が、琴音をその場から攫っていった。
誰かに抱かれ、宙を舞う体。 そんな中で、琴音は目を細めた。 大分この世界にかぶれてしまったが、土と草香る冒険者の匂いが今でも彼の体から感じられるような気がした。
少年の体が地面に着地する振動と同時、光が遠のいていく。
「すまん遅れた。 大丈夫か?」
琴音を覗いているのは、やはりハヤトだ。
泥と血に塗れた彼の顔は、既に激しい戦闘を終えた後だ。 Aランクトウカツとの戦闘に出向いていたのだろうかなどと考えた矢先、彼の顔が近いことに気付き、琴音の顔に熱が宿る。
しかも、当たり前のようにお姫様だっことは、罪な男だ。
「だ、大丈夫です……それより、早く下ろしてください」
ハヤトが慎重に琴音を下ろす。
それから彼は、高笑いする少女の方を見やった。 琴音もそれに倣う。 少女が二人を振り返り、その背後に青龍が叩き付けた炎の残滓が白煙としてもくもくと空へ伸び続けていた。
「黒縄……」
「あなたたち二人はもう少し生かしてあげようと思ってたけど、二人同時に戦ってくれるなら、もう摘んじゃおうかしら? ふふふふ……この街は本当に楽しいわね、坊や」
黒縄が目を丸めて琴音とハヤトを見やる。
触手が全身を這い上がってくるかのような寒気がした。 あの女の目には、自分を満足させる戦士を求め続ける狂気がありありと浮かぶ。
「あの坊やみたいに、あなたたちも私を心の底から震えさせてくれるのよね!?」
「……あの坊や、ねぇ」
ハヤトが目を細め、琴音は胸に手を当てる。
親愛なる二人の友人の顔を思い出した。
黒縄は頬に両手を添えながら愉悦に身を捩る。
「そう……私を殺してみせた、あの少年。 あんなに心を震えさせられた相手は、初めてだったわ……!! 如月 ハヤトくん……あなたにも期待してるのよ? ふふふっ……」
愉悦の表情は、やがて惜しむものへと。
「私を殺そうとする強い意志……全てを捨てて、戦いに投じたあの子の目……ゾクゾクしちゃうわ。 まぁ、もう彼と戦うことはないのだけれど」
だからその分満足させろと言わんばかりに、黒縄は唇を歪めて琴音たちを睨みつける。
ハヤトは首を傾げた。
「どういう意味だ?」
「だって彼はもう、今頃死んでしまってるでしょうし」
琴音は首を横に振る。 彼が、死んでしまうわけがない。 彼は決して、彼が愛した人を悲しませたままにしておくような人間ではないのだから。
そういう確信がある。 だから、琴音は黒縄の言葉を嘘だと振り払う余裕があった。
だが……ハヤトはどうだろう。 それほど仲がいいわけではなかろうが、小波 蒼が死んだと言われた彼は、どんな反応をするか。
「ふーん」
……少しは、動揺するものだと思っていた。
予想に反して、彼の声はあまりにあっさりとしている。 心配など無縁の声音である。
ハヤトは何かにつけてだらしない男だが、そういった人情には厚いと思っていた。
そんな彼が、琴音の評価とはまるで正反対の言葉を口にしたことに、琴音は苛立ちを覚えて鋭い視線でハヤトを見上げる。
しかし、その勢いは、ハヤトの表情を見た途端に止まった。
彼は、笑っていたのだ。 何か可笑しい話でも聞いたかのように。
鼻で笑った後、ハヤトは黒縄に言ってのける。
「――なら、俺がここに来るまでに見たあの光景は幻か?」
ザッ、と。 大地を踏みしめる音がした。
なるほど、と琴音の表情筋が緩む。
――ほら、やっぱり。
――彼は、ルイさんを悲しませたままにはしない。
――それにしても。
――身のすくむような覚悟だ。
黒縄が、虚を突かれて背後に立ち昇る白煙をゆっくりと振り返る。
「ただのモブ、ですか……」
琴音が口ずさんだのは、黒縄が討たれたあの日に、彼が崩れ落ちそうな体で言った言葉である。
琴音としては、人の命は平等であってほしい。 彼の言うモブだ主人公だなどという区別があってほしくはない。
しかし、自分が王女としての公務を全うし、それが他のものには務まらなかったように、この美しい世界にもそういった差はあるのだろう。
彼もまた、本当にモブという人生を背負っていたのかもしれない。
琴音自身それを考えないようにしていたが、薄々は感じていたことだ。
だからこそ、彼を見ていると、心が熱くなる。
なぜなら、
「それは本当にあなたを形容する言葉なんですか?」
彼は、そんな枠組みを叩き壊して、前へ前へと進んでいくからだ。
生まれつきの不平等だとか、そんなものが、まるでないとでも訴えてくるように。
「……まさか」
黒縄が、驚きを隠せないように、されど失くしたものを見つけた子どものような声音で言う。
白煙の向こう側に、二つの人影が浮かび上がった。
いつもありがとございます。
この度、百話目を投稿することが出来ました。
長くも思え、短くも思える道のりに思いますが、ここまで来られたのも、応援してくださった皆様のおかげです。
重ねてですが、いつもありがとうございます。
これからも、この作品を何卒よろしくおねがいします。