第8話 女を捨てて
リックは私から唇を離し、戒めから解いたが、私は動けずにいた。彼は服装を正して立ち上がり、威厳のある顔で私を見下ろしていた。
「いいな。ジンジャー・メリド・クエス・ロバック。後に正式な使者を送る。王太子の婚約者となるのだ」
「バカな! ふざけるなリック! 私は認めない! ライラはどうする!」
「ふざけてるのはキミだ。ジンジャー。私は果たし合いに勝った。キミから仕掛けてきた果たし合いに勝ったのだ。それにキミは負けたんだ。だからキミは私に従う必要がある。私は言ったぞ。好きにさせて貰うと。キミは承諾した。それでも断るというなら法律を変えてでもキミを拘束する。貴族は好きな者と結婚できないのが当たり前だと言ったのはキミだ。だからキミは好きな者と結婚できないのかもしれない。だがいずれ好きになって貰う。必ず!」
そう言ってリックは床を蹴って訓練場から出て行ってしまった。私はしばらく床に寝転んだまま。そして唇に触れる。温かかった唇を。
しかし、激しくそこを拭った。そして泣いた。
嫌だ。ライラの仇の唇。それに体のたった一部に触れただけだったのに、全てを汚されてしまったように感じたから。
いや、本当はそれはポーズだったに過ぎない。
自分でも分かっていた。リックの唇は嫌ではなかった。むしろリックに心を持って行かれそうだった。力強い言葉。力強い眼差しに。
だから、そうならないように拭ったのだ。
もう一度、ライラに顔をあわせられるように。
ライラのためにリックを嫌いにならなくてはいけない。
私の目から幾筋もの涙がこぼれた。
それはなんの涙だろう。
悔しいから?
リックが憎いから?
いいや違う。リックを嫌いにならなくてはならないという自分の思いへだろう。
しかし、私はそうしなくてはならないのだ。
私は屋敷に帰ると理髪師を呼んだ。
そして伸ばし続けていた長い金色の髪を切った。完全なる短髪。もはや男にしか見えない。
「ふっ。これでもはや男にしか見えまい」
「ああ、なんとももったいない。美しき髪を。お嬢様。──いえスイマセン」
理髪師はお嬢様と言ったことを謝る。私は鏡を見ながら苦笑する。だがこれでお嬢様などとは言われまい。リックの浅はかな恋心だって砕ける。なまじ長かったから変な気を起こしたのかも知れない。きっとそうだ。なにが「好きなんだ」だ。バカにするなよリック。こちらからそれを砕いてやるからな。
「ジン様?」
「ん? いかがした」
「なにを笑っておられるので?」
笑っている? 本当だ。目の前の大鏡には短髪の笑っている私。不覚にもリックの「好きなんだ」を思い出してしまったからということか?
クソ! リックのやつ!
私の想像にまで現れるとは!
許せない。許せないぞ!
私が激しく舌打ちをすると、理髪師は自分に向けられたものと思い込み怯えた。悪かったと思い、すぐに理髪師に詫びを入れた。
「あ、ス、スマン」
「い、いえ。しかしいつものジン様ではないようで」
「おかしいか?」
「はい。なにか自分の中と戦っておられるようで……」
「──そうか」
私は短髪にしたことを父に報告にいくと、大層喜んでいた。
「うむ。いい男振りだ。凛々しいのう」
「ありがたき幸せ」
「これでロバックの武門はますます隆盛しよう」
「仰るとおりです」
私は足を揃えて敬礼すると、腰の細剣が小気味よい音を立てる。父もそれにあわせて敬礼をした。
父が手を下ろすのに続いて私も手を下ろし一礼する。
「あの。父上」
「どうしたジン」
「私は武人です。男です。間違いありませんね」
「そうだ」
「その言葉が聞きたかったのです」
私は回れ右をして父の部屋から退出しようとすると、父から小さな声。かすかな声が聞こえた。
「スマン。ジンジャー。私のわがままだ」
私は目を閉じたまま退出した。
どうか父上。そんな迷いなど捨てて頂きたい。
私はとうに女は捨てた。
義を守り、忠のために命を捨てる。
それが武人だ。
王太子の──婚約者など馬鹿げている。