06 春の夜に
春の夜はまだ肌寒い。私は薄い上着を羽織って、宮廷の裏庭を歩いていた。
あの後、両陛下の話を聞いていたらすっかり夜が更けてしまった。こんな時間帯に帰すのは申し訳ないと、今日は宮廷に泊まりなさいと王妃陛下が提案してくれたのだ。父たちと顔を会わせたくない私は、その好意に甘えることにした。
「……ふぅ」
季節の花々が植えられている花壇を眺めながら、私は今後のことを考える。
もう虫も寝静まっている時間だというのにこうして散歩をしているのは、今日のことが頭から離れなくて眠れなかったからだ。
私は、昼間の王妃陛下を思い出した。
「あの子はね、昔、乳母を大怪我させたことがあるの」
ガブリア王妃は悲しそうに目を伏せた。
「ほんと些細なことで癇癪を起こしてね。それを諫めた乳母に対してこう怒ったの。『うるさい』って。もう五年以上昔のこと。ロータスがまだ四つか五つの頃だったわ。普通の子供なら大したことない言葉でも、特別なあの子は違った。呪いが発動したの。意図せず、無意識に、発動させてしまったのよ」
私は驚いた。正直に言うと、陛下の話と似たような噂を聞いたことがあったのだ。
ロータス殿下は気に入らない人物を呪い殺す、と。当時の私は真偽が定かではないと噂を聞き流していた。考えてみれば、過去に起こった事件を元にし、実態を誇張して話すということは別に珍しくない。殿下の噂も、そうして面白おかしく広まったのだろう。
「乳母は命を取り留めたものの、二度と声を出せなくなり、宮廷から去っていった。ロータスは激しく後悔したわ。あのときのあの子は見ていられなかった……そして、これがきっかけで、あの子を諫めるひとはいなくなっていった——私たちも、含めてね」
自虐するように、王妃陛下は笑った。
隣にいたラインハルト陛下が、ガブリア王妃の肩をそっと抱く。
「……幸いにも、ロータスは道徳的な息子だった。そのおかげか、今日に至るまで乳母のような悲劇は起こっていない。だが、それがいつまでも続くわけではない。人として、王として、道を外しそうになったとき、息子を殴ってでも元に戻せる存在——
そんな女人を探していたのだ」
国王陛下の言葉に、「買い被りすぎだ」と首を振った。
私、そんな立派な存在じゃない。
前世で、妃として全く役に立たなかった。
皇帝は大嫌いだったけど立派な人で、私は彼が守りたかった物を知っていた。なのに、皇帝の死後、私は何にも守れなかった。ただ壊されていくのを、見ることしかできなかった。
そんな私に、ロータス殿下を諫める立場なんて務まるはずがない。
ましてや、王妃なんて。
「お願い、アザレア嬢」
ガブリア王妃が、涙目で言った。
「あなたにしか、頼めないの」
——あの子を怒ってくれた、あなたにしか。
「あー! もう!」
私はその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。
どの世界も権力者なんて自分勝手だ! 私は、誰かのために怒れるような女じゃないっていうのに!
あのときはただ、私のために怒っただけなのに!
「どうしてこうなるのよ!」
感情のまま叫ぶと、背後から足音が聞こえてきた。
え? こんな夜中に誰? もしかして、幽霊!?
私が顔を青くして恐る恐る振り返れば、そこにはロータス殿下が立っていた。
「——あ」
ロータス殿下は私の肩を叩こうとしたのか、中途半端に伸ばしかけた手を引っ込めて、おどおどと言った。
「……き、気分でも悪いのか?」
「え!? あ、いえ、全然元気です! ほら!」
私はすくっと立ち上がると、どこも悪くはないと腕を広げて全身を見せる。
殿下はほっと胸を撫で下ろす。その安堵した表情はどこか寂しげで、何だかほっとけない雰囲気であった。
「なら良い。どこか具合が悪くなったら、すぐに知らせよ。良いな?」
そう言って踵を返す殿下の腕を、私は咄嗟に掴まえてしまった。
彼が驚いた顔で振り返る。
「なんだ? まだ、何か用が?」
「え、えっと、そういうことではないのですが……」
まずい。反射的に引き止めてしまった。
私は頬を掻きながら、あははと苦笑いを浮かべた。
「ちょっとまだ眠れませんので、よろしかったら散歩に付き合ってくれませんか?」
*****
どうしてこう私は自分で墓穴を掘るんだろう。
真夜中、裏庭を殿下と歩きながら、私は激しく後悔していた。
ロータス殿下は無言だった。沈黙に耐えられず、私は何とか会話の糸口を探す。
「そ、そういえば! 殿下はなぜ、こんな夜更けに外にいらっしゃったのですか?」
「……少し、夜風に当たりたくてな」
「そ、そうなんですね〜。私も、ちょっと考え事がしたくて外にいたんですよ〜。奇遇ですね〜」
語尾を伸ばして笑うが、殿下は乗ってこない。
再び沈黙が落ちる。夜風が、私たちの間を吹き抜けた。
き、気まずい……!
私は謎の汗を手のひらにかきながら、会話が続きそうな話題を探した。
「殿下はよく、夜に散歩をなさるのですか?」
「いや、全然」
しないんかい!
「で、では、今日は珍しい日なんですね〜」
「ああ」
会話を終わらせようとするな!
もっとリアクションをください殿下!
私があたふたと次の話題を探していると、ロータス殿下が呟くように言った。
「昼間、其方に言われていたことを考えていた」
殿下の発言に、私は口を閉じた。
「——誠実とは一体何であろうか、と」
殿下は私に話しかけるというよりも、独りごちるように話し続ける。
「余は国のため、民のために働いていると自負しておった。だが、余の考えは万人に届いていないのだと、昼間の其方でわかったのだ……それまでは、誰もかれも余を否定してこなかったからな」
そして殿下は思い出したかのように、ふふ、と笑った。
「いや、しかし、頬を殴られたのは生まれて初めてだった! あれほどの衝撃は中々なかったぞ!」
ロータス殿下は私の前に踊り出ると、私の手を掴む。
「正直に言おう。余は、まだ其方が言った誠実さとは何なのか、答えが出ていない」
そして燃えるような赤い瞳が、私をじっと見つめた。
「だから——アザレアが、教えてくれないか?」
その瞳は昼間と違い、真剣であった。
「余が間違っているならば、教えてほしい。正してほしい。余は、あまりにも人と違いすぎる。それゆえ、此度のように乖離が起きた。だから、臣民の心が離れる前に——アザレアが、余を叱ってほしい」
ロータス殿下は私の手を握る力を少し強めた。
その真剣な表情に、私はため息を吐く。
ああ、もう。全くもって、権力者なんて勝手だ。自分の都合しか考えない。嫌いだ嫌い。
だから、私の答えは決まっているんだ。最初から、決まっていたんだ。
私は歯を見せるように笑って、殿下に意地悪く言ってやった。
「今度は、泣かないでくださいね」
私の言葉に殿下はびっくりしたあと、恥ずかしげに俯いた。
「それを言うのは、ずるいぞ……」
耳まで真っ赤にしたロータス殿下が可愛らしくて、私は思わず笑顔になる。
春の夜風はまだ冷たくて、火照った頬を冷やすには丁度良い。
甘く爽やかな花が香る、そんな夜だった。




