後編
戸を敲く音に甚べえはめちゃめちゃビックリした。もしや、あの女が戻ってきたのか……いや、まさかね。
土間に立ち、玄関の戸を開ける。あばら家の引き戸は建てつけが悪くなっている。
来訪者は見知らぬ男だった。みすぼらしい、おっさんだった。おおかた同業の者(百姓)だろう。
「こぜんど様たあ、あんたかえ?」
男のいきなりの問いに甚べえは度肝を抜かれた。
展開、早すぎるて。女が出て行ってからまだ半日も経っていない。情報が拡散するにはあまりに時間が短い。
名前についてはすでに周知されていたと考えるのが自然だろう。女が出て行くタイミングで、こぜんどは、おそらく解禁されたのだ。
「い、いかにも」
超絶やりづらかった。こぜんど様の所作、口調など甚べえには想像のほかである。あまり喋りすぎず相手の言葉にただ頷いているのが吉だろう。
「そうかえ。よかった」
百姓風の男はひどく嬉しそうだった。そして、
「たいしたもんはお渡しできねえですが」と言って背負っていた大根、人参などの野菜を甚べえにくれた。
「かたじけない」
甚べえが礼を言うと、男は二、三度お辞儀をして去って行った。
いいね、最高だね。あれこれ詮索されないのが一番だ。名前の確認だけできっちり、もてなしを受けることができた。
それが食べ物でもカネでも、あるいはオコゼのようなパターンでもかまわない。気持ちが大事よ気持ちが。
実際に名を呼ばれて気づいたことだが、こぜんど様と「ご先祖さま」は発音がよく似ている。けれど野菜をくれた男がオレをご先祖さまと思っていたなんてことは、いくらなんでも、ないだろう。
それから毎日、甚べえは施し……じゃなくて、もてなしを受けることになった。毎日きっかり、一人ないし一組の来客がある。
一時に集中しないところがじつに良い。おそらく来訪者たちのあいだで順番待ちのようなルールづけがなされていると思われる。
さらに、もてなしの内容である。食べ物や酒、女などたしかにありがたいが、それだけでは百姓から足を洗うことはできない。
やはりカネがものを言う。けっして少なくない金額を置いて行く者が五人(組)に一人はいた。甚べえは、あっちゅう間に働かずともよい立場になった。
あばら家のとなりに立派な屋敷を建て、そこで気ままに暮らした。
だが、あばら家はけっして取り壊さなかった。というのも、来訪者たちはここを目指しているらしいフシがある。
ためしに一度、村を出てみたが、誰も甚べえをこぜんどと認め話しかける者はなかった。それは名札を付けてもおなじことだった。
何なんすかね……あのあばら家にはパワースポット的な魔力が秘められているのか。あるいは床下にさる高貴なお方の遺骨でも眠っているのか。
おっかなくて、とても調べる気にはなれなかった。理由なぞどうでもいい。この幸運がずっと続きさえすれば……。
綻びは、常にそうであるように突然やってきた。
甚べえは屋敷を出ると日課である「あばら家入り」をした。ここで、この粗末な家でただ待っているだけで、毎日誰かしらが訪れ金品・サービスのいずれかを提供してくれる。
ホント、たまりませんな。こんな暮らしをはじめてもう五年になるだろうか。
その日あらわれたのは身なりのよい初老の男だった。金持ちパターンきたー、と甚べえは内心で拍手した。
「コゼどんとは、あなたかな?」
強烈な違和感があった。名前を間違えられたのは、こぜんどの名を授かってからはじめてだった。
「こぜんどです。こ・ぜ・ん・ど」
うっかりミスなんて誰しもあることだ。甚べえは初老の男に懇切丁寧に教えてあげた。
「いや失敬。ここらにコゼどんのお宅があると聞いて参ったのだが、人ちがいだったようだ。まことに失敬」
「いやいやいや、だから」思わず言葉が迸る。「こぜんどを、コゼどんと間違って憶えられたのでは? ここらにコゼどんなる者は住んでおりません。私こぜんど、しか」
嫌味なくらい強調したのが逆にマズかった。初老の男は憤慨した。
「コゼどんは先代を世話してくだすった大恩あるお方。お名前を間違えるなぞ、あり得ん! 場所を間違えたことは謝る。では失敬」
ウソでしょう……怒って帰っちゃったよ。もてなし、てゆうかカネは?
甚べえはその場で崩れた。動悸が止まらない。失敗した……失敗したのはこれがはじめてだ。
と、すぐにまた来客があった。さっきのはフェイクだったか。ホッと胸を撫で下ろす。
だが、どこかまだ引っかかる。日に二度の訪問はこれまたはじめてだ。すでに法則崩壊している感がハンパない。
「せごどんとは、あなたかな?」
全身から力が抜けてきた。西郷さん、ここにはいないよ? ここ薩摩じゃねーし。眉毛あんな太くねーし。
丁寧にお断りすると、来客は失敬したと詫びて帰った。カネ置いてけ、カネをよー。
また来客があった。
「コゼコゼとは、あなたかな?」
可愛いくなっちゃったよ。わざと言ってるだろ……カネを払わないならとっとと帰れ!
見ると、あばら家の前に長蛇の列ができている。
マジかよ、こいつら皆しょーもない言い間違えをしにきたのか? てゆうか、前列の人のやり取りで目当ての人じゃないって、わかるだろう。
「カネ払え……カネを。カネ……」
圧倒的な数の言い間違い客たちに囲まれ、だが取り合わず、甚べえはいつまでもカネカネと呟いていたそうな。
一説にはカネが大好きなことから小銭人と、彼は呼ばれるようになったそうです。ウソです。