前編
ある夜、ひとり者の甚べえのあばら家を女が訪ねた。
女の名はオコゼといって甚べえのために飯をつくり、ついでに一夜を伴にしてくれた。
甚べえは狐につままれたような心持ちだった。
これはアレか? 鶴の恩返し的な何かだろうか。それとも雪女か……。
だが彼は一羽の鶴も助けておらず、昨夜は吹雪でもなくなおかつ女の肌は温かった 。ここ大事。
はたまた鼻のデカい仏師が助けた天道虫的な者だろうか。オレも変な薬を盛られて鼻がでっかくなっちゃうのか。
「悪かったね、こんなことになってしまって」
「いいえ」
オコゼは正座し向こうをむいたまま言った。完全に出て行くときの姿勢である。
「もしよかったら、これからも……」
「それはなりません」
若干食い気味に彼女は言った。
「ですよね……」
芝居がかったやり取りだがダメ元である。さて。
「貴女は出て行かれるんですか」
「私は、」オコゼは甚べえに向きなおって言った。「あなたに伝言にやってきました」
「……はい」
甚べえも背筋をのばす。やはり、か。
これからこの女は無理難題を言ってくるにちがいない。オレがぜったい守れないような戒めを与え、それを破ったとき彼女はふたたび現れるのだ。
黒いせぇるすまんのごたる、約束破りましたね? の至言とともに。
「これから多くの人があなたを訪ねるでしょう。そしてあなたは、もてなしを受けるのです」
きたよこれ……ブルギさん的なやつや。甚べえは内心で拍手した。
甘い話と頭では理解している。けれど、人間とはかくも弱い生き物である。なんなら自分限定でもいい。
目の前に大金を積まれたとき魂をペロッと売る自信が甚べえにはあった。
オレは悪くないオレは悪くない。相手がもてなす、てんだから断れないだろう。いや……断れるのか?
「……んど」
ふだん使わないあたまを忙しく働かせていたせいで、甚べえはオコゼの言葉を聞き逃した。
「何て?」
「こぜんど」
今度ははっきり聞こえたが意味がわからない。
「こぜんど? 何すか、それ」
「特別な名前です」
言って彼女は妖艶に笑った。すごい、やったった感があり甚べえはすこし腹が立った。
「……つまり、その名前を使うと特別な待遇が受けられるってことで?」
「そんなところです」
何それ、そんなところです、て。そうですと断言しないのがいかにもあやしい。
まあ彼女自身、深い事情はしらないのかもしれない。所詮は伝達者か。
「その、何て言うか、札とか飾りみたいな……見た目にわかり易いものはないんですかね」
「ありばせん」
何だよ、ありばせん、て。この女も壊れてきているのか。もうすぐお婆ちゃんになっちゃうんじゃないの?
「伝言はそれだけですか」
女は無言で頷いた。
「だったら、すぐに出て行ってください。きみが思い出になる前に」
さて。気味のわるい女を追っ払ったところで甚べえは思案をはじめた。
名前か……微妙に地味だな。いや、ある意味派手でもある。
もしオレが武士や役人だったら、つまりふだんから名前が重要視されるような立場だったなら、これはインパクト大と言える。
だがオレはしがない百姓。村を出れば名前なぞいくらでも変えられる。この点は感謝だ。
すると今度はインパクトが薄い。オレの名を気にする輩がいるとは思えず、つまりはオレという人間のインパクトが薄いのだ。やかましいわ。
あたまを掻毟ると甚べえは、やはり名札をぺったんこする作戦に出た。
見た目は大事よ? 以前に奇兵隊に加わった村人たちが名札を付けたという前例もあることだし、おかしくはないだろう。
こぜんど、いったいどんな意味なのか。
間違えて憶えないよう書き記しておいたが、酒でも飲んで寝たら翌朝確実に忘れている自信が甚べえにはあった。ぜんぜん頭に入ってこない。
商いをする人を商人、お金が大好きな人を守銭奴と言ったりする。では●●の人、または●●のヤツという意味なのだろうか。
こぜんど……コゼの人? たしかあの女はオコゼと名乗った。意味が通るような通らないような、微妙なところだ。
そもそも、あの女の語ったこと一切合切がデタラメである可能性を否定できない。
甚べえが信用する気になったのはオコゼがおもてなし第一号だったからである。
伊達や酔狂でわざわざこんな手の込んだウソを言ったりするものか。ならば彼女の言葉は信用できるわけで……甚べえの思考は堂々巡りを繰り返す。
そのときだった。誰かあばら家の戸を叩く者があった。