49.追いかける
「なに言ってるのか分からないけど」
福沢は困惑顔で佇む。凪人は頭を下げたまま続けた。
「告白されたとき嬉しかった。福沢はいつもおれのこと気にかけてくれるし真面目ですごくいい奴だと思う。だけどおれはアリスのことが好きだ。それなのに福沢に気を持たせるような言い方をした。そういうの二股って言うんだろう。おれは最低な男なんだ。だから、殴ってくれ」
これがいま自分にできる最大限の贖罪だ。
気温の上昇でだらだらと汗が流れてくる。どれくらい時間が経っただろう、福沢が大げさに息を吐いた。
「そうじゃないかなーとは思ってたけど。……顔上げてよ。みんな見てる」
腕組みしていた福沢は、しかし穏やかな表情を浮かべている。
「ね、あたしの下の名前覚えてる?」
「下の名前?」
「当ててみて。そうしたらキレイに振ってあげる」
凪人は必死に記憶をたどったが思い出せない。気にもとめていなかったのだ。
「ぶっぶー! 時間切れ。歯、食いしばって」
言うが早いかバチン、と小気味よい音が周囲に響き渡り、通りがかった客たちがぎょっとしたように目を瞠る。
「うぅ」
口の中が切れて血の味がする。しかし当然の報いだと承知していた凪人は頬を押さえることをしなかった。かわりに福沢がハンカチを濡らして頬を冷やしてくれる。
「どうせケンカかなにかしたんでしょう。ここまでしたんだから兎ノ原さんをちゃんと捕まえるんだよ。もう二度と離しちゃダメ。いいね?」
「約束する」
「それからもう一つ。あたしのことは七海って呼んで。兎ノ原さんを呼ぶように優しく呼んで」
七海――海だ。だから海に行きたがったのだと思うと胸が痛くなる。
「ほら行って、大好きな人のところに」
乱暴に背中を押される。
「ありがとう福沢……いや七海!」
「さっさと行け、この最低やろー」
力いっぱい背中を押されたのでそのまま走り出した。振り返ったら迷いがでる。だからまっすぐ前だけを見て走った。
※
三時間に及ぶ電車の旅は思った以上に短く感じた。緊張のせいだろうか、少しずつ増える乗客にもみくちゃにされても吐き気がしない。
(アリスに会ったらなんて言おう)
(どうやって謝ろう)
(前の関係に戻りたいなんて都合が良すぎる)
答えらしい答えを見つけられないまま目的の駅で電車が停まる。一歩降り立った瞬間、目の前に広がる海の碧、べたつく熱風が手荒な歓迎とばかりに襲いかかってきた。途端に息苦しさを覚えて近くのベンチに座り込む。
目を閉じて休んでいると規則正しい波音が体内に打ち寄せてきた。アリスと築いた思い出をさらった波音はいま、乱れた心を優しく均していくようだった。
「よし、いくぞ」
胃薬をペットボトルの水で飲み干してベンチを立ち上がる。改札を出ると人気のまばらなロータリがあり、その先に海岸線が広がっていた。
数キロあるという海岸線のどこでアリスが写真撮影しているのかは分からない。人混みを探して歩き回るしかなかった。ホテルの前で待ち伏せしてもいいがじっとしていられない。
肌にまとわりつくような風と不安定な砂浜、どこまでいっても青い海。太陽を反射する水面が人間の目のように凪人を襲う。
『――少しだけだよ』
思い出すのは六年前の光景。猫を飼いたいと願った凪人が目の当たりにした悲劇。
『――外に出してあげたことは内緒にしてね。今日からぼくの弟になるんだからいい子にしないとダメだよ』
ほんもののまっくろ太に触れたかった凪人は誕生日もクリスマスも七夕も「猫が欲しい」とお願いしていた。そんな頑張りに応えようと母はスタッフの一人から子猫を譲り受ける約束をしてくれた。
そしてあの日。凪人はケージの中で震える黒い子猫と対面した。
金色の目と長い尻尾にふさふさの毛、凪人の想像以上に可愛くてまっくろ太より少しだけやんちゃだった。
撮影が終わったら連れて帰れると分かっていたのに待ちきれなかった凪人は休憩になる度に子猫の様子を見に行った。餌をあげたり水を替えたり背中を撫でたり。待ち遠しくて仕方なかった。そして……。
『――行っちゃダメだ、そっちは……!』
おぼつかない足取りで砂浜を歩いていると若いカップルがこちらに向かって歩いてきた。一瞬ミルクティー色の髪が見えた気がしてパッと顔を上げたが、麦わら帽子の下にあった女性の顔立ちはアリスとは似つかない。日差しのせいで髪色を見間違えただけだ。
「がっかりだったねー」
すれ違いざま女性の声が聞こえてくる。凪人はなんとはなしに聞き耳を立てていた。
「撮影やっているっていうから見に行ったら顔色は悪いし自信なさそうに下向いてるしきょどきょどしているし。あれで本当にモデル?」
モデル。その単語に反応する。
「すみません!」
気がつくと通り過ぎた背に声をかけていた。不審者でも見るように振り向く二人。ぐっと胃が痛くなったがいまはそれよりも聞きたいことがあった。
「あの、撮影していたモデルってAliceですか?」
顔を見合わせる二人。凪人は心を奮い立たせるように詰め寄った。
「教えてください、お願いです。お願いします」
周りの目が痛い。少しでも気を抜けば吐きそうだ。けれどここで引き返せない。凪人は必死に唾を呑み込んで吐き気を抑え込む。
「土下座しろって言うのならします。もしお金が必要なら、少しですけど」
財布を取り出そうとすると女性が慌てたように手を振った。
「ちょ、ちょっとなにやってんの。バカじゃないの」
「俺たちがカツアゲしてるみたいじゃねぇか」
非難されるまでもなく自分がいかにバカげているのかは分かっていた。
(おれはバカだ。バカだからアリスを傷つけた。おれのせいだ)
視界がぐらぐらと不安定に揺れる。アリスに会いたい。その気持ちが切れたらいまにも倒れてしまいそうだ。
「まったく、なんなのよ」
ふいに影が差した。日傘が差し掛けられているのだ。手にしていた女性が呆れたように息を吐く。
「そっちの事情はよく分からないけど、ここから先の入り江でモデルのAliceが撮影していたのよ。遠巻きになら見られるんじゃない。ほら」
女性のスマホに映るアリスは憂いを帯びて元気がないが懸命に撮影をこなしているようだった。しかし何枚目かでスタッフに取り囲まれてしゃがみこんでいる姿を見た途端、息が止まりそうになった。
「あぁこれ? 急に泣きじゃくってスタッフがなだめていたの。情緒不安定って感じで、テレビや雑誌のイメージとは全然違う。あんまりにも痛々しいから帰ってきちゃった」
アリスは痛みをこらえてカメラの前に立っているのだ、いまこの瞬間も。
そう思うと胃の痛みなんてどうでもいいと思えた。倒れたっていい、アリスに会えるのなら。
「……ありがとうございました。おれ行きます」
礼を告げてからふらふらと歩き出すと追いかけてきた女性にペットボトルを押し付けられた。
「飲んだ方がいいよ、熱中症になりかけているみたいだから」
喉の渇きすら忘れていた凪人だったが一口飲むと抑えられなくなった。砂漠に水が与えられるように次から次へと飲み下してしまう。そうしてすっかり飲み干してしまうと少しだけ頭が冷えてきた。
「全然気づいていませんでした。ありがとうございます」
「いいのいいの、よく分からないけど頑張ってね」
そう言って傘を畳み彼氏の元へと戻っていく。合流した二人が当然のように指先を絡ませあうのが羨ましく思えた。アリスだってああして手をつなぎたかったはずなのに自分のせいで我慢させてばかりだった。
再び歩き出した凪人は最寄りの売店で追加のペットボトルを購入し、体調を万全にしてから入り江に向かった。
「Aliceちゃん笑顔ちょうだい」
洞窟を抜けた先にある入り江は外界から隔絶されたようだった。むき出しの岩肌に寄り添うような形でアリスが撮影に臨んでいる。思えば撮影現場を見るのはこれが初めてだ。立ったり座ったり様々なポージングをしたりと忙しい。
「もうちょっと笑えない?」
取り囲むスタッフたちの表情がいくぶん険しいのはアリスの態度にある。
カメラを見る以外は伏せ目がちで顔を上げようとせず、精いっぱいの笑顔もどこか泣いているようだ。何度注意されても表情は冴えずシャッター音だけが空しい。しびれをきらしたカメラマンが眉を吊り上げて言った。
「もうちょっとこう、口角上げられない? なんか笑顔が死んでるよ?」
「……すみません」
「今回の写真集は『十五の笑顔』がテーマなんだから、そんなやる気ない顔だと一枚も採用できないよ?」
「……すみません」
「こっちも遊びじゃないんだからしっかりやってよね」
厳しく叱責されて縮こまるアリス。周りのスタッフも黙り込んで遠回りに肯定している。
「かわいそー」
「まぁ、あれじゃあ仕方ないよね」
一番後ろにいた凪人だったが野次馬が次々と去っていくのであっという間に最前列に押し出された。
ほんの数メートル先にアリスがいる。しかし手は届かない。泣き笑いのような表情だけがカメラに収められていく。カメラマンのため息を聞くとどれも納得のいく出来ではないらしいがアリスはカメラの前に立っている。逃げずに、恐れずに、人々の前にいる。
「がんばれ――がんばれアリス、応援してる」
決して大声ではない。囁く程度の小さな声でエールを送った。
届くなんて夢にも思っていない。
ふと。
カメラを見ていたアリスの視線が動いて凪人を捉えた。目が合った――と確信した次の瞬間。
「……いや」
たちまち恐怖の色に歪む。




