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美少女モデルに一目惚れされたけど目立ちたくないので放っておいてほしい。  作者: 芹澤
7.ずぶ濡れのアリス

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39.凪人くんの、部屋

「帰れよ」


 突然現れた女性……小山内レイジのかつてのマネージャーを一も二もなく拒絶した。

 葉山は不快そうに眉を吊り上げる。


「まだ具体的なことをなにも言っておりません。せめて話だけでも」


「聞きたくない。帰れ。帰ってくれ!」


 懇願するように頭を抱えた。

 血が逆流しているのではないかと思うくらい体中がおかしい。どうにかなってしまいそうだ。


 見かねた母が間に割って入る。


「葉山さん、せっかく来ていただいたのに申し訳ありませんが今日はお引き取り願えませんか?」


 悪者扱いされた葉山は不機嫌そうに腕を組む。


「このカフェは客を選ぶというのですか?」


 そんなつもりはない、と宥めようとしたが、それでは何も解決しないことを悟る。


「お願いします……この通りですから……」


 ひたすら頭を下げて相手を諦めさせるしかない。

 願いが通じたのか葉山はフンと鼻を鳴らして踵を返した。


「また来ます。こちらも仕事ですからね、簡単には諦めません」


 不吉なセリフと力強い靴音を残して店を出ていく。

 扉が閉まって十秒も経たないうちにドアベルが鳴り、今度はアリスが顔を出した。


「あぁアリスちゃん! いらっしゃい!」


 急にほっとした桃子はいつも以上の大声で出迎えてしまった。アリスはびっくりしたように目をむく。


「あ、お邪魔します。忙しかったですか?」


「いいのいいの、さぁ入って」


 大歓迎の桃子をよそにアリスはしきりに扉の方を気にしている。


「いまスーツの女性とすれ違ったんですけどお客さんですか?」


 モデルとマネージャー。事務所こそ違うが現場で顔を合わせている可能性もある。桃子は内心冷や汗をかきながら首を振った。


「なんでもないわ。道を訊かれただけなのよ」


「そう……ですか。ところで凪人くんは?」


 振り返ると凪人の姿がない。心配になって自宅のほうを見に行くと案の定トイレに籠城している。桃子は軽くノックして中に声をかけた。


「アリスちゃんが来たけど、会える?」


 ややあってくぐもった声が返ってくる。


「……ごめん、いまは無理だ。ゾンビみたいな顔してる。薬飲んでちょっと休めば大丈夫だと思うけどアリスを待たせるのは申し訳ない」


「分かった。お母さんから話をしておくから部屋で休みなさい。どうせなら格好良くプレゼントを渡したいものね」


「なんで知って」


「ふふ、お母さんの日課は息子の部屋を掃除することよ? ごみ箱のレシートに気づかないと思うの?」


 沈黙が返ってくる。内心焦っているのだろう。

 そんな息子の心中が手に取るように分かる桃子だったが、呑気に笑ってもいられない。


 うずくまっているであろう息子の痛々しい姿を想像して、その背中をさするように扉に触れた。


 長年胸に抱いている不安が浮かび上がってくる。


 このままではダメだ。

 トイレに逃げ込んだりせずに頑張れ、闘えと、無理やりにでも引きずり出してやらなければいけない。正しい母親ならば。


 けれど一方で罪悪感が重くのしかかる。


 幼いころ人見知りが激しくて引っ込み思案だった凪人を「人並み」に明るい子にしたくてオーディションを受けさせ「小山内レイジ」に仕立て上げたのは自分だ。そういう意味では葉山と共犯。そんな自分に、傷ついた息子を突き放す資格があるのだろうか。


 わからない。


 トイレ前を離れるとき声が聞こえてきた。


「ごめん。いつもごめんな……母さん」


 懺悔するのは凪人ではなく、他ならぬ自分なのに。

 こらえきれなくなった桃子はスリッパを鳴らして走り去った。




「迷惑は承知で少しだけ待たせてもらえませんか?」


 凪人が寝込んでいると聞いたアリスはしばらく待ちたいと申し出た。


「スケジュールを確認したら今月はもう予定がいっぱいで当面会えそうにないんです。今日も一時間くらいしか空きがなくて、いまも外で柴山さんに待ってもらっているんです」


「あぁ、最近はテレビに雑誌にと大人気だものね」


 CMをきっかけに売れっ子となったアリス。

 そんな相手にコーヒーを出しているのが不思議だ。


「貴重な時間に来てくれたって言うのにごめんなさいね」


「いいえ、私が会いたかったんです。本当はアリサとのことはどうでも良くて、私が我慢できなかった。昨日電話で声を聴いてしまったから余計に、会いたくて」


 会いたくて会いたくてたまらない。

 こんな美少女にそう思わせる息子は幸せだ。桃子は小さくほくそ笑んだ。


「じゃあ待つ間にちょっとだけお話しましょうか。柴山さんも来るかしら?」


「あの人はこういう落ち着いた空間が苦手なのでお構いなく」


 すると桃子は目を輝かせて身を乗り出した。


「じゃあ女性同士の内緒話をしましょうか。アリスちゃんは凪人のどこが好きなの?」


「最初は顔……でした」


 アリスは少し自信なさそうに答える。


「アリスちゃんは小山内レイジのファンだものね。顔は大事よね」


 するとアリスは意外にも「そうじゃない」と首を振った。


「最初は激似!って思ったんですけど、よくよく見るとなにか違うんです。凪人くんは桃子さんに似て色白で優しい顔してますよね。特別に目が大きいとか鼻筋が通っているイケメンじゃない。レイジはもっと眉がキリッとしていて目も大きかった気がします。凪人くんとは違う」


「じゃあ、顔の他にはどこが好きなの?」


「うーん、声が好きだなぁって思いました。低すぎない聞き取りやすい声で、すごく落ち着く。その声で私に突っ込みを入れてくるのも好きです。夫婦漫才みたいで楽しい。あと名前を呼ぶと私の目をちゃんと見てくれるんです。そのとき野良猫みたいにちょっと警戒しているのが可愛い。あと黒猫みたいな髪も好きです。艶々していて撫でたくなる。それから細い指。スプーンを持ってかき混ぜたりマグカップを渡してくれるときの指の動きがすごく好き。それから」


 次から次へと溢れてくる。

 息継ぎするように「好き」が溢れてくる。


 こんなにも好きなのに。

 こんなにも彼で満たされているのに。

 それなのに、もっともっと知りたいと思っている。


 もっと溢れたい。溺れたい。

 もっと好きになりたい。


「私、変でしょうか。こんなに好きなのにまだ欲しがるなんて。彼の新しい面を見る度に惚れ直しちゃうなんて、きっと変ですよね」


 ごくりと飲んだコーヒーはとても苦いのに、なぜか甘く感じる。恋をするとなんでも甘く感じてしまう魔法にかかるらしい。


「そんなことない。凪人もきっと嬉しいと思うわ」


 話を聞いていた桃子が目を細める。しかしアリスは不安そうだ。


「気持ち悪く、ないですか?」


「まぁそれは本人の受け止め次第でしょうけどね」


「うー絶対にイヤそうな顔しますよ」


「本当に嫌悪している時はあの子無表情になるから反応があるのは悪いことじゃないわよ」


「ほんとですか?」


 前のめりになって目を輝かせるアリスが可愛くて、そんなに想われている息子が少しだけ羨ましかった。


「ねぇもしも、だけど」


「はい?」


「目の前にあなたの想像どおりの小山内レイジが現れて告白してきたらどうする?」


 理解が追いつかないらしく、アリスは目を瞬かせるだけだ。


「例えばよ。小山内レイジと凪人、二人がアリスちゃんの前にいてそれぞれ付き合う条件として百万円の指輪と千円ぽっちの指輪を出してきたら、あなたはどちらの指輪をとる?」


 アリスにとって小山内レイジは憧れであり理想であり目標でもある。

 一方の凪人はすぐ近くにいて手が届く存在。


 あまりにも長く沈黙するアリスに慌てたのは桃子のほうだった。


「やだ、そんな深刻な顔しないで。試しているわけじゃないの、ただの興味本位。忘れて。ね?」


 時計を見るとアリスが来てから二十分ほど経過していた。桃子は用意したお盆にミネラルウォーターとグラスを乗せる。


「悪いけど凪人に水を運んでもらえる?」


「え、私がですか?」


「わたしは柴山さんにコーヒーとサンドイッチをケータリングしてくるから。カウンターの奥から入ると自宅のリビングに出るからそこで靴を脱いでスリッパに履き替えて。玄関前の階段を上がった突き当たりが凪人の部屋。すぐトイレに駆け込めるように鍵はかけていないはずよ。お願いね」


 桃子はさっさとコーヒーの準備を始めてしまう。

 アリスに残された選択肢は引き受けるか断るかの二択だけ。


(凪人くんの、部屋)


 考えるだけで胸がドキドキして張り裂けそうだった。

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