3.えこひいき
「遅れてごめん、福沢」
走って教室に入った凪人は同じく週番のクラスメイトに謝りに行ったが、教材を準備していた彼女は凪人をにらんだきりなにも言わなかった。それだけ立腹しているということだ。
嘔吐したあとはしばらく気だるくて動けない。三十分以上籠城してようやく動けるようになった凪人は予定より一時間も遅れていた。福沢が怒るのも無理はない。
しかし相手の機嫌を損ねたからといって週番をやらなくていいということにはならない。必要以上に刺激しないよう距離を置きつつ、見よう見真似で人数分のプリントをホチキスで留めていった。いまはなにを言っても火に油。それなのにこんなときに限って変なものを見つけてしまったりするのだ。
「あの、この紙さ、印刷するときに折れていたみたいで文字が半分しか……」
なけなしの勇気を振り絞って話しかけたが、分厚いプリントを机に叩きつけられたせいでびびってしまった。
「知らない。自分で先生のとこ行けば」
福沢は顔も見ずにそう言い捨てると自分がホチキス留めした分のプリントを抱えて立ち上がり、生徒たちに配り始めた。
「はいこれ、一時間目の授業で使う問題集だって。全部埋め終わった人から自習らしいから早めにやったほうがいいよー」
前の席から手際よく配っていくが凪人が持っている分は当然配れない。一刻も早く自習を勝ち取りたいのにプリントが配られない生徒たちからはすかさず文句が飛んだ。
「おい黒瀬なにしてんだよ、さっさと配れよ」
もちろん凪人だって急いでいる。ひとりくらい手伝ってくれてもいいようなものだが飛んでくるのは怒号ばかり。気軽に手伝ってくれる友だちなどいない。
そんな時に限って、ホチキスが空しい音を立てた。
「やば、針終わった」
助けを求めて福沢を見るが、自分のプリントをしっかり確保した彼女は仲間内で問題を解き始めていて視線を合わせようとしない。
結局凪人は職員室に針を取りに走り、戻ってきたときにはプリントは待ちきれなかった生徒たちによって奪い取られたあとだった。ホチキスは別の生徒が融通をきかせたらしい。凪人の元に残ったのはミスプリント入りの問題用紙とホチキスの針だけだ。
一時間目の授業が終わったあとも彼女は口をきいてくれなかった。そのため凪人はひとりで解答済みのプリントを運ぶ羽目になる。しかし彼女もひとりで教室に運んできたのだと思うと強くは責められない。
(そうだよな。早くに来て問題集をコピーして運んだ福沢にとっておれは一時間も遅刻した無責任野郎だもんな)
憤慨し、無責任野郎を少しでも懲らしめたい彼女の気持ちも分かる。頭では。
(やっぱり黒猫のせいかな。黒猫が横切ると不吉だって言うし)
駅のホームで見かけた黒猫と少女の顔が浮かぶ。
(あの顔……誰だっけ。芸能人だって? おれテレビあんまり見ないからな)
ターコイズの目を思い出すとまた胃が痛んだ。
「よし、次の文章を黒瀬……じゃなくて福沢、読んでくれ」
国語の教師が凪人を指名しかけて視線をそらす。突然名前を呼ばれた福沢は不満げに手を挙げる。
「先生、前から思っていたんですけど、なんで黒瀬くんだけ朗読免除されるんですか?」
凪人は指名されない。それは薄々クライメイトたちが感じていた不満だった。
「数学の授業でも一度も当てられたことないし、おかしくないですか?」
体からさぁっと血の気が引いていく。名指しされた凪人は背中を丸めて顔を伏せていた。
大勢から見られる。注目される。それは凪人にとってはこの上ない恐怖だ。
学校にはあらかじめ診断書が提出されていて、過度に注目されることがないよう配慮を求められている。しかしそんなことを生徒たちが知るはずもなく、なんらかの『えこひいき』があると考えられていた。
「あ……黒瀬、どうだ、たまには読んでみるか? 座ったままでいいから」
生徒たちの気迫におされた教師が困り顔で尋ねてくる。週番のこともあり、とても断れる雰囲気ではない。
「はい」
凪人は小さく頷いてから唾とともに吐き気を飲み込んだ。教科書の文面に目を落とす。
「このようにしてぼくは、世界というものを信用しなくなり、嫌悪するに至った。平和などというものも……のりべん?」
「それは詭弁だ。昼ごはんにはまだ早いぞ」
教師の一言でどっと教室内が湧いた。ささやかな誤読。それだけのことで凪人の吐き気がピークに達した。両手で力いっぱい口を押える。
「お、黒瀬、おい大丈夫か?」
椅子を倒して立ち上がった凪人は机を押しのけるようにして教室を飛び出し一目散にトイレへと駆け込んだ。
心因性嘔吐。
身体的な異常はないが、ストレスによって吐き気が誘因される病気だ。凪人の場合は不特定多数に注目されたり極度の緊張状態に陥ったりすると嘔吐してしまう。誰にも理解されない悲しみと後ろ指差される恥かしさに、もう何年も悩まされているのだった。
『――おいおい情けねぇなぁ、レイジ』
吐いている間中、頭の中で懐かしい声が響いていた。