29.今夜はだれもいないから
「ったく渋滞のせいで時間かかっちまった。待たせたな黒瀬くん、家に着いたぞ」
柴山の声で目を開けた凪人はシートから飛び起きた。
車は見覚えのある住宅街に泊まっている。
自宅に送ってもらう途中で眠ってしまったらしい。
(夢、だったのかな)
アリスと交わしたキスも、花火大会も、すべてが夢のようにおぼろだ。
「どうした、大丈夫か?」
バックミラーごしに問いかけられたので慌てて首を振った。
「大丈夫です、ありがとうございます。すっかり熟睡しちゃって」
「いいっていいって。悪いけどアリスも起こしてやってくれ」
言われて気づく。隣のシートで同じく熟睡しているアリスと手を握っていたことに。きつく絡み合った指先は、互いの心が通い合った証拠でもある。
やはりあれは夢ではなかったのだ。
そう確信した途端、かぁっと体が熱くなった。
「アリス着いたよ。おれ帰るからな」
そう言って手を離すとアリスが目を開けた。寝ぼけ眼ではあるが、先に車を降りた凪人についてくる。
「ふぁー、よく寝た。でも体が痛いや。浴衣って動きづらいんだよね」
大あくびをしながら腕を回す粗雑さがなんとも彼女らしい。
「ちゃんとベッドで休めよ。明日も仕事か?」
「うん、午後からね。仕事っていうかレッスンだけど」
「レッスン?」
「そ、モデル業だけじゃなくお芝居もしてみたいと思って勉強中。今度ドラマのオーディションを受けるの」
「へぇー頑張れよ」
「うん。受かったら連絡するね」
来月には夏休みが始まる。
時間が合えばアリスと会いたいところだが、いまの話を聞く限り難しそうだ。
「なになに? 私をデートに誘いたいって?」
目ざといアリスは凪人の考えなどお見通しのようだ。心を見透かされた本人としては悔しくて仕方ない。
「そんなわけないだろ、仕事中にあくびしていたら大変だと思っただけだ」
「ふぅん」
またこの目だ。上から目線の得意げな顔。
「いいからもう帰れよ。おれだって眠……あれ」
ポケットに差し入れた手が止まる。アリスが瞳を瞬かせた。
「どうしたの?」
「あ、いや、鍵がないんだ」
焦ってポケットやカバンの中をあさるが目的のものは出てこない。出掛けるとき確かに施錠してポケットに入れたはずなのに。
「そーいやぁテントを撤去していたスタッフに落とし物をしていないかって聞かれたな。鍵かもな」
車の窓を開けてタバコを吸っていた柴山が呑気に言った。凪人は青ざめる。
「たぶんおれのです。どうしよう、いまから戻って」
「やめとけやめとけ。もう深夜一時だぜ。あとでオレが連絡しておくから今日はどこかに泊まれ」
泊まるとは言っても近隣にホテルはない。時間が遅いので近所の顔見知りを訪ねるのも気が引ける。そもそもそこまで親しい間柄ではない。
(親戚の家――は遠いし、交通手段もない。こうなると野宿しかないか)
悶々と考えていると、くい、と裾を引かれた。アリスだ。心なしか顔を赤らめて下を向けている。
「良ければ……だけど」
イヤな予感。
アリスは覚悟を決めたように顔を上げ、凪人を見てはっきりと言った。
「うちに来て。今夜はだれもいないから」
(つづく)




