2.最悪な出会い
「待て待て待てっ」
一段跳びで階段を下りてきた凪人はあと一歩のところで先発の電車に乗り損ねてしまった。
周りの客たちが迷惑そうに睨みつけるのを苦笑いでごまかしつつ急いでその場を離れる。カバンで顔を隠しながらも空いているスペースを探し、ホーム中ほどの電車待ちの列へとたどり着いた。
季節は六月に入り、朝からの蒸し暑さで汗が噴き出してくる。手団扇であおいだところで汗が引く気配はない。
(いやだな、この熱気。やっぱり早起きして自転車にすれば良かったな)
ひとつ向こうの線路を通過する快速電車がなまぬるい空気をぶつけてくる。
息がつまりそうな人ごみの中、にゃあん、と鳴き声がした。
聞き間違いかと思うくらい小さな声だったが、凪人は自然と声の主を探していた。それは案外近くにいて、自販機の下からするりと這い出てくるところだった。黒猫だ。
(まっくろ太?)
大人とも子どもとも言いきれない黒猫は体をほぐすように背伸びをすると乗客たちの足の間を軽快にすり抜けて行った。ホームから落ちては大変と見守っていたが、慣れているらしく改札のある階段を下りていく。
母がことあるごとに『黒猫探偵レイジ』を観るせいで黒猫といえばまっくろ太という認識がすり込まれている。まっくろ太はCGで実在しないことは有名なのに、だ。
「ねぇ昨日の『Aちゃんねる』観た?」
中学生とおぼしき女子二人組がネット上の動画配信番組のことで笑っている。
「みたみた。歯ブラシ問題で炎上したこと一応謝ってたね。でも唾液検査する神経は疑いますって、あれ全然反省してないよね」
「これから毎回番組中に使った歯ブラシの落札額を被害者への和解金にあてるだって。しかも一万円からスタート。ふてぶてしいよね、ほんと笑える」
「今夜は早着替えに挑戦するらしいよ。どこまで媚びてんのってカンジ」
「クォーターだっけ、良く見ると顔怖いよね」
(……あぁ、Aちゃんねるって番組に出てるお騒がせモデルの話か)
今朝の記事とやっとつながった。どうやらそのモデルはすこぶる評判が悪いらしい。
ぼっちの凪人にとってはどうでもいい内容だが、こうして他人の会話に耳を澄ましていれば「余計なこと」を意識しなくても済む。
そっと胃袋のあたりを触って状態を確認した。どうやら落ち着いているらしい。願わくばこのままキープしてほしい。
(……ん?)
ふと視界に留まったのは隣の列の先頭、緑地に白のチェックが入ったスカートだった。近隣にある私立校の制服で、通うのは金持ちや芸能人ばかりだ。
(金持ちでも満員電車で通学するのか。大変だな)
同情とともにかすかに親近感を覚える。スカートの主は頭頂部から腰まで伸びる黒髪ストレートが傍目にもキレイだったが、うつむいているため髪に隠れて顔は見えない。
なんとなく気になって見ていると少女の死角にあたる背後からスッと手が伸びてきた。それも両手だ。
少女のピンと伸びた背に合わせるように手のひらを向け、距離をはかっている。
(一体なにを?)
それはまるでドラマの一シーンのように、手は確実に少女を狙っている。
しかし当の本人が気づく様子はなく、うつむいたままである。他にだれか気づかないのかと見回してみても、乗客の視線は手元のスマホや新聞に集中していて彼女に迫る危機にはまるで気づいていない。エキストラ然として空間を埋めているだけだ。
「あ、ちょっ、失礼します」
なんの意図で伸ばされているのか分からない手をいさめる勇気なんてないが、だれかの存在が近くにあれば警戒して手が引っ込むかもしれない。そんな思いがあって凪人は列を離れた。
『ピンポン、まもなく列車がまいります。危険ですから黄色い線の内側へ下が――』
アナウンスが鳴り響いた。
列車が近づいてくる。
その瞬間、狙いすましたように手が動いた。
少女の背中めがけて。
「――――ッッッ」
それはだれの声だったのだろう。
その場の全員がまったく同じタイミングで息を呑む。そんな、悲鳴とも絶叫ともつかない完全一致の和音。
突然押された少女はつんのめるように前へと飛んでいた。黄色い線の向こう側へ。
凪人は地面を蹴っていた。その瞬間は本当になにも考えなかった。
(行くしかない)
思いっきり跳んで、宙を舞う少女に横から体当たりをくらわせた。
――ざわめきが戻ってくる。
一瞬意識が飛んでいた凪人が目を開けると、既に電車は到着していた。
「え、なになに?」
「飛び込み自殺?」
「なんか知らないけど男の子がタックルしたの突然」
出入りする客たちが何事かと視線を向けてくる。立ち止まったり手を差し伸べてくれたりするわけでもないのに興味本位の視線ばかりが痛い。
(――見るな)
どくん、と体が震えた。
(見ないでくれ)
咄嗟に口を押さえて呼吸を止めた。
じわじわと這い上がってくるのは今朝食べたトースト。牛乳。ヨーグルト。体の中を逆流してくる。
「……いったぁ」
横倒しになっていた少女がうめいた。
「あっ……ごめ」
命を救うためとは言え人前で押し倒す形になってしまった。
とにかく一刻も早く立ち上がろうと手をついた凪人は、自分の指先に絡む奇妙な感覚に気づいた。
(えっ?)
真っ黒な毛の塊を掴んでいる。呪いの類でなければこれは一体。
「――それ、私の」
恨みとも悲しみともとれる声が吐き出される。
「私のウィッグ、取った」
顔と覆ってうつむいている少女。その頭部はヘアネットとヘアピンで地毛をまとめており、人目にさらされるにはあまりにも恥ずかしい姿だ。
(なんで、ウィッグ、なんで、こんな状況に……)
「どうしてくれるのよ。こんな醜態さらしてネットに――――えっ」
少女と目があった。凪人自身パニックに陥りながらも、日本人離れした顔立ちとターコイズの瞳に焦点が合う。しかし少女の顔に浮かんでいたのは怒りや悲しみではなく、
「……うそ、まさか」
驚愕に目を見開いて、恐る恐る手を伸ばしてきた。
しかしそれは途中で止まる。
「ねぇちょっとあれって」
先ほどの中学生が声高に叫んだからだ。
「うそうそうそ」
「うそじゃないよ、だってどう見ても」
急に騒がしくなる。我関せず素通りしようとしていた乗客たちが足をとめて覗き込んでくるほどに。
凪人はぎょっとして固まった。
目、だ。
朝の通勤・通学ラッシュで次々と人が行き来する。到着する電車は呼吸でもするように乗客を吐き出しては吸い込んで去っていく。そんな彼らの何十、何百という視線が自分たちに集中しているのだ。
「なんか芸能人がいるって」
「ちょ、見たい」
「押すなバカ」
狭いホームは押し合いへし合いで大混乱。あちこちでシャッター音が響き渡る。
背筋を氷塊がすべり落ちた。
(やば……っ)
顔面蒼白で口を押さえるが目の前の少女はまるで気づいていない。黒髪のウィッグを取り戻してかぶり直すと周囲に鋭く視線を巡らせた。
「あぁまずい、気づかれちゃった。ここじゃなんだから別のところで話でも――」
凪人はそれどころではなかった。
胃が震えて吐き気がこみあげてくる。反射的に手で口を押さえたものの一度痙攣しはじめた胃は止めようがない。必死に唾を呑んで押し返そうとするが、あふれんばかりに胃液が押し寄せてくる。焼けつくように喉が痛む。
「だいじょうぶ? 顔色悪いよ」
ようやく異変を察した少女がびっくりしたように手を伸ばしてくる。
「もし良かったら私の」
もう限界だった。
「え、ちょ、ちょっと」
脱兎の如く、とは正にこのことだろう。
凪人は走った。人ごみを押しのけ、掻き分け、走って走ってトイレに飛び込み――。
「うぇえええええええ」
思いっきり吐いた。
少女が誰でなんと言っていたかなど、もうどうでも良かった。