28.二度目のキス
顔をうずめたアリスの肩はまだ震えている。それだけ追いつめられていたのだ。
できるだけ優しく労わろうと思い、そっと声をかける。
「ちゃんと見てたよ」
「本当に?」
「うん、偉いと思った」
「凪人くんが勇気づけてくれたお陰だよ」
「アリスの実力だよ」
そう返すとムッとしたように顔を上げた。
「ちがう、凪人くんのお陰」
「いやいやどう考えてもアリスだろ」
「ちーがーう」
「違わない」
抱き合ったまま喧嘩をしていると「外まで響いてるぞ」と柴山が入ってきた。
慌ててアリスを押し返そうとしたがそれより早く腰に手をまわしてホールドされてしまう。
「ちょっ……アリス、ちがいます柴山さん、これはなにかの間違いで」
必死に弁明しようとする凪人だったが、柴山は何事もなかったようにアリスに向かって話しかける。
「アリス、このテントは今夜中に撤去するらしい。だから早めに出て欲しいんだってさ。オレは車にいるから落ち着いたら戻ってこい。二人とも家まで送って行ってやる」
「分かりました。落ち着いたら、戻ります」
「荷物は運んでおくからゆっくりでいいぞ。ほんじゃ」
ささっとテントを出て行ってしまう。助けて欲しいようなそうでないような凪人のことは完全にスルーだった。ひどい。
「ここにいても仕方ないから外に出よう」
アリスは凪人から体を離すと自分のハンドバッグを抱えて凪人を促した。
「どこへ行くつもりだ?」
「ただの散歩」
花火大会を終えた湖畔に人の姿はまばらで、先ほどまでの熱気が嘘のように風だけが通り過ぎていった。アリスのあとをついていく形でしばらく歩く。互いに言葉はないものの、花火の余韻に浸るような沈黙が心地よかった。
先を行くアリスが嬉しそうに振り返る。
「さっきね、プロデューサーさんに言われたんだ。来年もよろしくって」
「来年も呼んでもらえるってことか? 良かったじゃないか」
「うん、最初はハラハラしたけど私のおとぼけキャラと手厳しい熊田先生とのやりとりが面白かったって。固定の仕事ができたのは嬉しいよ。柴山さんも喜んでいたし。それにまた素敵な花火を見られると思うと楽しみ。……でもね」
足を止めたアリスは晴れ渡った空に顔を向けた。もういまは月が静かに輝いているだけだが、先ほどまではたくさんの花と興奮が咲いていた。
「でも仕事が決まったってことは来年も凪人くんの隣で一緒に見ることができないんだと思って、ちょっぴり残念だったんだ」
当然のように来年も凪人が傍にいると信じている。そう考えると少し重荷だった。
「私ね、子どものころからずっと一人で花火を見ていたんだ。自宅マンションのバルコニーに正座して。お客さんの歓声も音楽も届かないところで次々とあがる花火の華はすごく綺麗で、何度も手を伸ばして掴もうとした。でもすぐ消えちゃって届かないの。もっと近くにいけば届くかもしれないと思って一人で来てみたことがあるけど、ものすごい人込みに驚いちゃった。あちこちの屋台からいい匂いがして、わたあめやクレープをみんな笑顔で頬張っているの。それを見ていたらなんだか居たたまれなくなっちゃってさ。それ以来近づかなかったんだ。遠くで見ていればなにも知らずに幸せだったのに、近づいたら淋しくなるなんてバカみたいでしょう」
だれにも誘ってもらえなかったアリス。
花火の楽しさも屋台のおいしさも知らなかったアリス。
傷つくのがイヤで遠ざかったアリス。
「今日は、大丈夫だったのか?」
目元を軽く拭ったアリスは満面の笑みを浮かべた。
「平気だったよ、一人じゃなかったから。スタッフさんたちがいてお客さんがいて愛斗さんがいて、そして凪人くんがいたから」
この笑顔を守りたいな。
そんなことを思った。
家族でもないのに、恋人でもないのに、なんでもないのに、守りたいと強く思った。
「あ、見て。花火やってるよ」
アリスが示したのは湖畔公園の外れだ。大学生らしきグループが手持ち花火で遊んでいる。賑やかな声とともに火花が舞い散り、うっすらと煙が上がった。
「いいな、分けてもらおうよ。絶対に楽しいよ」
即断即決のアリスは凪人の制止の声も聞かずに駆け出していく。
しかし足元に転がっていた空き缶に気づいて激しくつんのめった。慣れない浴衣や下駄のせいもあって、そのまま派手に倒れ込む。
「アリス――ッ」
凪人はさっと前に回り込んで手を伸ばす。
「大丈夫か?」
「う……」
アリスは顔をしかめながらゆっくりと立ち上がる。おおきなケガはないようだ。
暗がりでよく見えないが自前の浴衣はだいぶ汚れてしまっている。
「あはは、転んじゃった……かっこわるいなぁ」
表面上は笑顔を浮かべているが動揺を隠しきれていなかった。追い打ちをかけるように背後で笑い声が響く。
「見たいまの、思いっきりずっこけてたよ」
「だっさー」
「痛いの痛いの飛んでイケー」
先ほどの大学生グループがけらけらと笑っていた。
その瞬間、凪人の中でなにかがプツンと弾けた。
「――――笑うなッ!!」
横隔膜の震えでようやく気付く。
怒りにまみれた大声が、他ならぬ自分の発したものだということに。
自分自身聞いたこともないような大声だった。
(うそだろ)
呆然とする凪人に大学生たちの非難するような目が集まる。たちまち吐き気がこみあげてきて息苦しくなった。
「……行こうアリス」
できるだけ彼らの目を見ないよう視線をそらしながら、アリスの手首を掴んで公園の外へと向かった。
(なんで、なんでおれ、こんな大声。いままでなかったのに)
自分で自分が信じられない。苔のように目立たずひっそりと生きていく。そう決めた自分が叫ぶなんて。
「ちょ、待って凪人くん。凪人くんってば」
無我夢中で突き進む凪人の腕をぐいっと引っ張り、アリスが急ブレーキをかけた。
「どこに行くつもりなの? 柴山さんの車がある方向とは逆だよ」
「え……、あ、ほんとだ」
そう言われてやっと、自分がまったく方向違いのところを歩いていることを知った。
「なんだか凪人くんらしくないね」
言い返せない。
アリスの顔を見ることもままならず、ひたすら自分の爪先ばかりを見ている。
するとアリスの方から歩み寄ってきた。
「ありがとう」
両手で頬を包み込まれる。目の前にある表情はとても穏やかだ。
「私のために年上の人たちに怒ってくれたんだよね」
あぁそうか。アリスを笑ったことが許せなかったのだ。
だからあんな大声を出してしまったのだ。
「ありがとう、嬉しかった。凪人くんはなにも悪くないよ。だからもう顔上げて」
「……ぅん」
聞こえてくるのは水音だけ。とても静かだ。
なんだか現実感がなさすぎて夢の中にでもいるような気になってくる。
目の前にいるアリスは、いままで見たどんな瞬間よりも綺麗だ。
「人の視線が気になるのなら、いまだけは私を見ていて。私はもう凪人くんしか見えないんだから。……ね?」
アリスの顔が迫ってくる。避けようと思えば簡単に避けられるが、もう逃げようとは思わなかった。
やわらかく重なってくる唇と寄り掛かってくる体を全身で受け止める。腰に手を回すのは気が引けたが、あまりにも体重をのせてくるのでそうやって支えるしかなかった。
けれど、そうして密着してしまえば元から自分の体の一部だったように馴染んでくる。
(――多分おれも、アリスのことが好きなんだ)
確信も確証もない。
けれどきっとそうなのだ。
(いつの間にか好きになってたんだ)
だけどこの気持ちは誰にも言えない。
一言でも口にしたら最後、あの花火のように弾けて消えてしまう気がするから。




