令嬢は名前を知らない
短編。めっちゃ短い。
公爵家の長女として私は生を受けた。
父は厳格な人だったけど、公爵夫人である母は、優しく穏やかで笑顔を絶やさない人だった。6つ離れた兄には会えたことなどなかったけれど、きっと忙しいのだと心の底からそう思っていた。
穏やかだった日々が終わりを告げたのは5歳の時。
母が体調を崩した。絶えなかったはずの笑みは苦悶の表情へと変わった。父は必死になって腕のいい医師を高額の報酬を払って雇ったけれど一向に良くなる気配は見えない。そうして、母の心臓は時を止めた。まだ温もりの残る母にすがりついて泣く。
苦しくて、寂しくて仕方がない。何もする気など起きなかった。
それなのに、私は王太子殿下の婚約者にされてしまった。
はじめこそ、心が癒えぬまま婚約させられたことに怒った。けれど私は恋に落ちてしまった。政略結婚でも殿下とならやって行ける。殿下となら笑っていられる。そんなふうに考えていた。
それは、私だけ、だったけれど。
王妃教育もほぼ終えて、あとは学園を卒業するだけとまでには時は過ぎた。
何も無ければ、そのままだったはず。それなのに、ある日を境に殿下の瞳には1人の姿しか映らなくなった。殿下の耳には1人の声しか届かなくなった。殿下の隣にいるのは、婚約者ではない。
それでも、それでも私はよかった。
見てもらえなくとも、貴方の姿を見れるだけで幸せだった。
話しかけてもらえなくとも、貴方に声をかけられるだけで幸せだった。
愛されなくても、傍で愛せることが幸せだった。
貴方の瞳に映るのが自分でなくともそれでよかった。
……はずだった。
「何…何とおっしゃいました?…殿下」
告げられた言葉が理解ができず……いや、脳が理解するのを拒み聞き返す。先に聞いた言葉が聞き間違いであるように祈って。
「聞こえなかったか?貴様との婚約を破棄する。この国からも出ていけ、と言ったんだ」
聞き間違いではなかった。
冷ややかな明らかな軽蔑の篭もった目で私を見下ろす婚約者。いいえ、私の婚約者だった人。この国の王太子である彼の横には二人の少女がいる。半年ほど前に私たちの学園に来た男爵令嬢と、隣国からきている第三王女アイナ様。
男爵令嬢は王太子殿下の腕に己の腕を絡ませ必要以上にくっついている。最初こそ令嬢としてどうなのかと注意はしたが、今ではもうそれに見慣れてしまっている。
アイナ様はただただ今の現状を理解できていないようだ。困惑の表情で私と殿下を見ている。当事者である私ですら理解できていないのだから当然と言えば当然かもしれない。
状況が呑み込めずに呆けている私に王太子殿下はつらつらと言葉を紡いだ。
「公爵令嬢、王太子であるこの俺の婚約者、アイナ殿の友人。その立場を利用してここにいる■■■を男爵令嬢だからと虐めていたのはもうわかっている」
そんな覚えはない。男爵令嬢であろうと彼女は貴族であり貴族の令嬢としての行動が求められるのだから、と彼女の軽率な行動を注意したりはしたがそれ以外の関わりなどなかった。そもそも、私を彼女から遠ざけたのは他ならぬ殿下だ。そんなことも忘れてしまったのだろうか。
「そして、あろうことかアイナ殿と■■■の暗殺を謀ったことは■■■の証言からわかっている。つまり、貴様は大罪人だ。死して償え。といいたいところだが慈悲深い■■■は貴様のようなものでも生かしておくべきだと言っている。そのため、死刑ではなく国外追放で許してやろう」
暗殺?
「…証拠はあるのですか?」
「証拠?被害者である■■■が見たと言っているのだからそれが証拠だろう?」
何を言っているのだろうか。証言など偽ろうと思えば偽れる。たった1人の女の証言の何が、証拠になるのだ。
アイナ様の暗殺?そんなのは知らない。覚えもない。ましてや、被害者が見たと言っている、というだけでは決定的な証拠にはならない。1人や2人ではなくもっと多くの証言があれば、証拠にはなるだろうが。そもそも、騒動の時、私は王太子殿下と共にいた。本来なら、暗殺はおろか「見る」ことすらできるはずがない。それどころか、私とアイナ様は友人だ。何故、友人の暗殺を企む必要があるのだろうか。
しかも、殿下は今『国外追放』だと言った。優しい優しい男爵令嬢のご慈悲なのだと言いたいのだろうか?生まれてからずっと誰かに世話をされながら生きてきた貴族が国を追放されても生きていけるなどと考えているのか?
それでも、ここにいる者は誰もそんなことは口にしない。私を冷たく見下ろす王太子が誰の言葉にも耳を貸さないであろうと察しているから。
そう、思っていた。
私は弁解を諦め、王太子の横にいる女_男爵令嬢に目を向け、バレぬようこっそり周りを見渡した。
「あぁ…そういうこと」
王太子の腕に絡む男爵令嬢の、父の、周りの表情をみて、思わず自嘲をこぼす。
_嵌められた。
それだけが理解できた。
バカだった。王太子だろうと婚約者がいる身として最後の一線だけは越えないだろうとそう思っていた。少し膨らんだ男爵令嬢の腹。嘲るような、勝ち誇ったような醜くゆがんだ笑み。明らかな言いがかりであるのに止めてくれない周りの場違いな嬉々とした目。
全て性根の腐った貴族たちが考えたこと。たくらんだこと。
なんて愚かなんでしょう。騙されて。遊ばされて。ただの操り人形と化して。友人まで巻き込んで、危ない目に遭わせてしまった。
愚かな私は俯いた。
(かなしいの?)
_いいえ、笑えてきたのよ
(うれしいの?)
_いいえ、愚かな自分に嫌気がさしたの
(じゃあ、どうする?)
幼いころから聞こえていた声に、私は笑う。
酷く……酷く歪んだ笑みだと思う。周りは正気をなくしたのかと驚愕の表情を浮かべている。
でも、そんなのどうだっていい。あんなに欲しかった父の愛も。あんなに愛した元婚約者も。私から何もかも奪って言った令嬢も。この場所から居なくなれるなら。この貴族たちから離れられるなら、狂人になったってかまわない。
だから__
「お父様…いいえ、ウルガータ公爵。今までありがとうございました。ここまで育てていただいたこと感謝しております。貴方様の娘として役に立てず申し訳ございませんでした。ですから、最後くらいは貴方様のお手を煩わせたりなどいたしません。男爵令嬢様。殿下がお選びになられた貴女様です。素晴らしき王妃になれますよう祈っております。憎んでなどおりませんのでどうぞご安心ください。そして、王太子殿下。どうぞお幸せにお過ごしください。……お慕いして、おりました」
深々と頭を下げる。貴族としては屈辱的なこれは私が彼らにできる最大の配慮だ。『貴方たちが何をしようとしていても私は関わりません。ですから関わらないで』という意味でもある。
そうして私は目をつむった。
_遠くに。私が私でいられる場所に
願う。それだけでいい。彼らは叶えてくれる。だって、私の魔力は人外にとって心地がいいものだから。私のそばに居るためならどんなくだらない願いも叶えてくれる。
それが愛し子である私の願いならば…
* * *
「おはよう。今日も依頼を受けるのねぇ」
「おはようございます。これが僕の仕事ですから」
王国から、あの場から逃げ出した私は隣国の帝国に来た。アイナ様の国とは真逆に位置するその国は、王国とは仲が悪い。といっても、一方的に王国が嫌っているだけで帝国としてはそうでも無い。
あの日、私は公爵令嬢を捨てた。私は冒険者となった。
公爵令嬢だった女はもう居ない。王太子の婚約者だった女はもう居ない。周りに操られた愚かで惨めな女はもう死んだのだ。同時に一人の冒険者が生まれた。少し育ちが良く、精霊に愛され、魔術も剣術も極めた少年。
そうして帝国の帝都で冒険者をしている。もともと戦闘能力があったので今ではちょっと名の知れた冒険者だ。
そう、名の知れた冒険者なのだ。
ただ、私には欠点があった。
私は人の名前がわからない。正しくは聞こえない。
親睦を深めるには名前を呼ばなければならないだろうが、昔からそうだったのだ。生まれてからずっと私のそばに居る精霊たちによって、私は人の名前を聞くことが出来ない。母や私を慕ってくれた侍女、アイナ様は精霊たちのお眼鏡にかなったから名前が聞けた。
婚約者だった殿下はその人たちにはなれなかった。精霊たちは殿下を認めなかった。まぁ、今でなら理由も分かるけれど。
母は死に、侍女は役立たずと言われ公爵家を追い出された。アイナ様だけが、心を許せるたった一人の友人だった。私はアイナ様を友人だと思っている。とっても優しくて可愛らしい人。アイナ様は信じてくれる。きっとそう。でも、会いに行くことは出来ない。私がアイナ様を信じられていないから。
帝都の人たちも大抵の人は名前を知ることが出来なかったけど、精霊たちに頼めば教えてくれるなんてこともあった。王国ではそうではなかったから帝国はそう酷い国ではないのだと思う。
はたして、帝国の貴族はどうだろうか。もし、もしも、精霊たちが彼らの名を隠すなら私はこの国を離れよう。公爵令嬢ではあったけれど、1人で生活できる能力くらいはある。
「精霊が認める男はいるのでしょうか…」
居るのなら私はどうするのだろう。私はどうするべきなのだろう。
答えはわからない。
けど、いつかその時が来れば分かるだろうか。
父には愛してもらえなかった。道具でしかなかった。
母は私を愛してくれた。けれど一人で逝ってしまった。
私は精霊を信じた。だから知ろうともしなかった。
どうか、誰か、教えてほしい。
愚かな私に。
狭い世界で生きてきた私に。
私の生が終わりを告げてしまう前に
どうか、
自分でも分からなくなってしまった私の心の内を__
多分そのうち連載にする。