二. 伝雲 後編
近衛武官として充実した日々を送っていた伝雲だが、ある時、一人の男性と皇城で出会うことになる。
そしてその出会いが、伝雲の心に今までに無かった変化を僅かにもたらし、その後の人生に大きな影響を与えることになった。
伝雲よりも三つ年上のその男性は、長身で均整の取れた体躯に、穏やかで優しい雰囲気を持った美しい人であった。
初めて間近でその男性と接した時に、伝雲は不思議な感覚に囚われた。
顔が熱くなる様な、落ち着かない心地を初めて味わった伝雲は、その男性の顔を真っ直ぐに見返すことが出来ずに俯き、そんな自分の意図せぬ反応に更に戸惑うことになった。
その後も何度か男性と会う機会があったのだが、伝雲はその男性から何かを問いかけられても何故か碌に口を開く事も出来なくなり、その事に焦って更に狼狽えるという悪循環を繰り返すことになる。
―――私は何をやっているのだ……
そんな自分の不甲斐なさに、伝雲は頭を抱えて人知れず落ち込む事になった。
だが、そんな挙動のおかしな伝雲に対しても、男性は優しく声を掛け続けてくれたのだが、その内に伝雲は男性の姿を見かけると逃げ出す様になる。
そんな伝雲の胸の内以外は、一見穏やかな日々が長く続いていたある日、近衛武官の上司でもある兄俊豪から伝雲は急な呼び出しを受けた。
天河殿にある兄の執務室に向かった伝雲は、そこで驚きの話を聞くことになる。
「伝雲。実はお前に内々で縁談の話がきている。この事は父上や兄上にはまだ伝わっていない。有り難い事に、相手のお方は武官として勤めているお前の気持ちをまずは知りたいと仰っている」
伝雲を見詰める俊豪の瞳は真剣で、伝雲の僅かな表情の変化をも見逃さない様にと注視していた。
「兄上。……私は、婚姻する気など……」
尊敬する上司であり、兄である俊豪からの突然の話に、伝雲は戸惑うように口ごもった。
―――反対を押し切ってまで、武官としての道を選んだ私が、今更婚姻をするなど……
困惑した伝雲は、兄の視線から逃れるように目を伏せたが、その際、脳裏に一人の男性の姿が色鮮やかに浮かび上がる。
伝雲は突然脳裏に甦った男性の優しい笑顔に、慌てた様に小さく頭を振ってその姿を追い出した。
―――何故、今あの方の姿を思い出す……?
伝雲は首を傾げて己の心に戸惑った。
そんな伝雲の様子を静かに見守っていた俊豪は、ふっと息を吐くと口を開いた。
「伝雲。この話を私に持ってこられたのは、お前も知っているだろう……様だ」
「え……?」
伝雲は目を見開いた。
正に今、自分の脳裏に浮かんでいた男性の名が兄の口から告げられ、伝雲は口を小さく開き茫然とした。
だが次の瞬間には、伝雲の顔に熱が集まってくる。
「あのお方が、私を……?」
震える声で問いかけた伝雲に対して、俊豪は重々しく頷いた。
「そうだ。お前を側室として迎えたいと仰っている」
俊豪の口から出た、側室という言葉を聞いた伝雲の顔から、すっと熱が引いた。
―――……そうだ。あの方の身分では、既に御正室の他にも側室が居られる筈だ。……私もその中の一人となるのか?
伝雲の胸が軋むように痛みを発した。
―――私達の身分では当たり前の事。……私は何を今更動揺している……?
伝雲は薄く開いた唇が小さく震えるのを、噛みしめるようにして抑えた。
「伝雲、どうだろうか? ……私としては悪い話ではないと考えている。あの方に嫁ぐなら、武官を続けることは厳しいだろうが、私は兄として、お前には女人として幸せになって貰いたいと願う」
兄としての想いを告げる俊豪に、伝雲は瞳を揺らした。
そうして、武官を辞して男性の側室となる自身の姿を想像してみる。
男性の横に正妻である女人が並び立ち、その後ろに複数の側室達と共に控える自分の姿を。
武人として男性を守る事も出来ずに、ただ自分の元に来てくれる日を待ち続け、他の女人達の元へ向かうのを黙って見送る側室としての自分の姿を思い描いた時、先程感じたよりも遥かに大きな胸の痛みが伝雲を襲った。
まるで息が出来ない様に、伝雲は口を小さく開けて喘いだ。
そして血の気の引いた蒼褪めた顔で俊豪を見返した。
「兄上……」
その先を続けることが出来ない。
そんな伝雲の様子を暫く見詰めた俊豪は、ふうぅと大きく疲れた様に息を吐き出し、天井を仰ぎ見た。
そうして改めて伝雲の顔を見た俊豪は、優しい兄の顔をして言葉を発した。
「返事は急がないそうだ。……しっかり考えて答えを出しなさい」
そう告げると、未だ動揺している伝雲に戻る様に命じた。
小さく返事をした伝雲は、思い詰めた顔のまま俊豪の執務室から退出していった。
「まだ自覚出来ていなかったのか、全く。誰が見ても一目瞭然であろうに。……我等の身分では、好いた方に嫁げるだけでも幸運なのだぞ、伝雲よ」
静けさを取り戻した執務室に、疲れた様な俊豪の小さな呟きが落とされた。
しかしその半月後、伝雲が己の心を決めきれずにいた時に、皇都で此れまでに無い程の疫病が巻き起こる。
皇都や近辺に住む者達は、その貴賤を問わず、多くが病によりその尊い命を落とすことになった。
そしてこの疫病の広がりにより、多くの者と同様に、伝雲の運命も大きく変換される事となる。
◇◇◇
伝雲は兄に命じられて近衛武官として後宮に勤めながら、あの日々に思いを馳せた。
未だ初恋さえ経験していなかった伝雲は、あの頃、自分の思いに気付くことすら出来なかった。
何故、彼の方の前だと顔が熱くなり、その優しい瞳を見詰め返すことも、まともに口を開く事も出来なかったのか。
彼の方の、数いる側室の一人となる事に、何故あれ程に胸が痛んだのか。
その痛みの理由を己の心が知る前に、疫病が全てを押し流し、終わらせてしまった。
―――もし、あの時に私が頷いていたならば…………
天上の世界の様な華やかで荘厳な後宮の景色を、其処に住む百花繚乱の美しき姫君達を眺めながら、伝雲は考え続ける。
―――人とは愚かだ。自分にとって一番大事な物は何か。それを無くして初めてそれが大切な物であった事に気付く。当たり前に送っている日々が、決して当たり前などでは無く、どれ程素晴らしい日々であったのか
伝雲は目を閉じて、懐かしい彼の方の姿を思い描く。
―――あぁ、お会いしたい…………出来る事ならば、もう一度、あの方の微笑みを目にしたい……
伝雲は目を開けて前を見詰めた。
―――もう私は、後悔はしたくない。……もし、叶う事ならば…………
明るい日差しを受けた伝雲は顔を上げて、晴れ渡った何処までも続くその空の先を見詰め、目を細めた。
―――いつか、いつの日か…………




