一. 伝雲 前編
彼の方と初めてお会いした日から、どれだけの月日が流れただろう。
身体ばかりが成長し、未だ恋すら知らなかった幼い感情を持て余して、ただ困惑するばかりのあの日々。
もし、あの時、胸の奥底から溢れる想いのままに、素直に頷くことが出来ていたならば、きっと私は今この場には居なかったことだろう。
たった一度の小さな迷いが、その後の私の人生を大きく変える事になるなど、あの時の私には知る由も無かったのだ―――
◇◇◇
大国寧波で古くから続く貴族制の中でも、郭家は特殊な家柄の貴族であった。
遥か昔、寧波の建国時に一人の若者が、後に皇帝陛下と成るあるお方に武官として仕えていた。
騒乱の時代に幾度も身を挺して皇帝陛下をお守りした功績により、新たに国を起こした際にその若者は貴族として取り立てられる事となる。
それが、現在は武の一族として国中に知られる郭家の貴族としての始まりであった。
それより二千年にも渡る長い時を、郭家は皇家に忠誠を誓い、常にその側近くで武官として皇家に仕えることを誇りとして、国内では知らぬものはおらぬ程の大貴族となった。
郭 伝雲は、そんな武の一族として名を馳せていた郭家の中でも、直系の姫君として生を受けた。
伝雲には、側室である母と同腹の兄が一人と弟が一人、その他にも母を別とする兄が三人、姉妹が二人いたが、母は違えども兄弟、姉妹の仲は其れなりに良く、家を継ぐべき長兄を皆で支え、伝雲は貴族として、また武家の娘として誇り高く暮らしていた。
そんな環境の中で育った伝雲は、父や兄が近衛武官として任務に就く姿を間近で見続けていた為か、当然のように自分も大きくなったら武官となるのだと考え、兄達が朝に庭で行う鍛錬にもその後ろに付き従い、必死で真似ていたのだった。
父や母、それに兄達は幼い伝雲が兄達を真似て身体を動かし、剣に見立てた棒を振っているのを微笑ましそうに見ていたが、十の歳を過ぎた頃からは少し困った様に眉を下げるようになっていた。
十四の歳を迎える頃には、多くの貴族家から縁談も来るようになり、母からは貴族の姫としてもう少しお淑やかになる様にとはっきり咎められるようになり、伝雲は葛藤するようになる。
幼い頃より父や兄に憧れて、自分も同じように近衛武官となる夢を持ってきたのだが、大貴族の直系の娘であるが故に、それを諦めなければならないのかと、伝雲は唇を噛みしめた。
また時を同じくして、皇家の尊い身分の皇子殿下の側室選びが行われており、伝雲の父は年頃の合う伝雲はどうかと考え、兄達と話をしているのを伝雲は偶然耳にすることになる。
一度は夢を諦めて父の言う通りに皇族へ嫁ぐことも考えた伝雲だが、どうしても武官となることを諦めきれずに、同腹の兄である俊豪にその苦しい胸の想いを打ち明けた。
俊豪はその全ての想いを受け止めると、伝雲に向き直った。
「伝雲。お前の想いは分かった。だが近衛武官とは、お前が思う程華やかでも高潔な世界でもないのだぞ。時には皇家の為に己の心に反した行いを成さねばならぬ事もある。その身を血で汚すこともある。己が傷つくだけでは無く、誰かを傷つける事もある。それに、女人としての幸せを逃すことになるやもしれん」
そこで俊豪は口を閉ざすと、未だ成人前の伝雲を鋭い眼差しで貫いた。
「お前に、……その覚悟はあるのか?」
伝雲は、今まで見たことが無い俊豪の厳しい視線を正面から受け止めた。
本音を言うと、普段優しい兄の恐ろしい程の覇気に、伝雲の身体は震えてこの場を逃げだしたい思いが沸き起こる。
だが伝雲はそんな自分を叱咤し、兄の言葉を真摯に受け止め、目を閉じると己の心をもう一度確認した。
俊豪はそんな妹の姿をじっと見詰めていたが、やがて伝雲は静かに瞼を上げた。
「はい、兄上様。それでも私は武官の道へ進みたいのです。皇家に仕え続けてきた郭家の直系の娘として、私も先祖達の様にこの国の礎となりたいのです」
「…………お前の想いは分かった。父上には私から伝えておこう。だが父上はきっと反対なさるだろう。それでも諦めずに信念を貫く事が出来たのなら、私はお前の味方となってやろう」
そこまで言うと、俊豪は何時もの優しい兄の顔に戻り、困った様に苦笑を浮かべた。
「まぁ、女性皇族方の中には、男性武官を嫌がるお方が居る事は確かだ。お前が近衛武官として仕えてくれるというのなら、武官としての私の立場からは有り難い面もある。……しかし、お前は幼い頃よりおてんばな娘であったが、その一途なまでの頑固さは一体誰に似たのだろうな?」
俊豪は可笑しそうに、唯一人の同腹の妹を優しい瞳で見つめるのだった。
その後、俊豪という味方を得た伝雲は、父や母、それに兄達を長い時間をかけて説得し、とうとうその想いの強さに折れた父が武官となることを承諾したのだった。
家柄も器量も良い自慢の娘が、女ながらに武官となる事に難色を示していた伝雲の実母だが、最終的には家長である父が決めた事だからと不承不承納得してくれた。
だが、もしこれが普通の貴族家の話であれば、認められることはまず無かっただろう。
そこは武の一族として名を馳せ、また傍系血族からは此れまでにも女武官を多数輩出してきた郭家ならではであるのかもしれない。
父に許しを得て、武官になる為の試験を見事に突破した伝雲は、十六の歳に晴れて武官として登城を許される事となった。
その後、武官として数年を務め、二十の歳を過ぎた頃に伝雲は念願であった近衛武官となる事が叶うのであった。
そうして、伝雲は己のあり方を根底から大きく変革される事になる、ある一人の男性と出会う事になる。