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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第七章

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二十. 恋草

 


 黒曜殿に初めて招かれてから、暫く経ったある日。

 夕刻と夜の狭間の時刻に、鈍い色の空からはこの冬初めてとなる雪が舞い降りてきた。




 静麗ジンリーは吐く息が白く染まる寒い中、居間の窓から外の様子を伺った。



 ―――あぁ、今年もこの場所で雪を見ることになるのね



 夕餉の後に一人居間で寛いでいた静麗だが、雪が降りだしたのを見て月長殿の外廊下へと出た。

 その寒さにぶるりと震えた静麗は、肩から掛けた厚手の上衣を掻き合わせ、陽が完全に落ち暗くなった空を見上げた。


 皇都へ来た年に初めて見た雪と同じく、とても幻想的で美しい光景だったが、やはり一人で見るのは寂しいと感じた。



 ―――だからと言って、雪を見慣れている芽衣を寒い中呼び付けるのは悪いし……



 静麗は白い息を吐きながら飽かずに空を眺め続けていたが、落ちてくる雪に触れようと廊下から華奢な手をそっと伸ばした。

 静寂な暗闇の中、淡い光を放つような静麗の白く細い指先に、小さな雪が舞い降りてくる。

 雪が指先に触れた、その時、月長殿の表門の方から、誰かが庭を歩いてくるひそやかな足音が聞こえてきた。



 その微かな音を耳に拾った静麗の鼓動が、どくり、と大きく脈打った。

 この様な日が暮れた時刻に、静麗の殿舎にやってくる人物など、限られている。



 ―――もしかして、陛下……?



 静麗は激しくなる胸の鼓動を抑えるように手を添えると、暗闇に目を凝らした。


 静麗が息を詰めて見詰める中、木々の間から現れたのは、黒い衣装に身を包んだ リィ 一諾イーヌオの姿であった。



「えっ?……一諾、さん…?」



 静麗が虚を突かれた顔で、小さくその名を呼ぶと、一諾は嬉しそうににこりと微笑んだ。


「はい。静麗様。一諾で御座います」

「え?……どうして、貴方が庭に?」


 一諾が月長殿を訪れる時刻は、何時も日が高いまだ明るい内ばかりだった。

 この様に暗くなってから、しかも芽衣に先導もされずにいきなり裏庭に現れるなど、今迄にはなかった事だ。


「一諾さん。どうしたのです、こんな時刻に」


 静麗は少し咎めるように声を掛けるが、一諾は穏やかな笑みを浮かべたまま、全く表情を変えずに近づいてくる。



 その見慣れた筈の大らかな笑みに、言い知れぬ何かが足元からひたひたと沸き上がって来るように感じて、静麗は思わず後ずさる。



「一諾さん、答えて! 何の用で月長殿に来たのですか!」



 静麗が口調を荒げて問い質すと、一諾は静麗が佇む外廊下の階段の前までやって来て、其処から静麗の顔を眩しそうに見上げた。


「何用?……勿論、静麗様をお迎えに上がったのですよ」


 一諾の穏やかとさえ言っても良い優しい言葉に、静麗は眉を顰めた。


「迎え? 何を言っているの? 私は何処へも行かないわ」

「いいえ、静麗様。以前言ったでは無いですか。私が後宮からお助けいたしますと。お忘れですか?」


 確かに以前、静麗は一諾からその言葉を告げられていた。

 だが、その危うい内容の為に誰にも相談できず、又あれから一諾の様子に変化も無かった事から、このまま忘れてしまおうと考えていたのだ。



 ―――まさか、一諾さんは本気で私を後宮ここから連れ出すつもりなの?



 静麗はごくりと唾を飲み込んだ。


 もし、此れが後宮に入れられて直ぐの、何も知らない頃なら、喜んでその手を掴んだかもしれない。

 でも、仮に今の静麗がその様な事をしたら、一体どれ程周りに迷惑が掛かる事だろうか。

 唯でさえ大きな心痛を与えている故郷の両親に、これ以上の心配を掛けさせる訳にはいかない。


 静麗は気持ちを落ち着かせようと、両手を固く握り深呼吸をした。



「一諾さん、貴方のお気持ちは嬉しいです。私の事を心配して下さって。でも、私は陛下の側室です。後宮から出るつもりは無いのです。今なら誰にも気付かれていませんから、どうかこのままお帰り下さい」


 静麗が真摯に言葉を掛けるが、一諾は笑顔のまま首を傾げた。


「何故です? 私なら貴女を助けることが出来るのに。陛下は、貴女の事を捨てたのですよ? その様な方に尽くす必要がありますか?」


 そう告げ、静麗を見詰めながら、階段を一段ずつゆっくりと昇ってくる。

 その一諾の視線に縫い止められたように、静麗の足はその場から動かない。



 静麗が強張った顔で、自分の目の前まで来た大柄な男性を仰ぎ見た。


「…一、諾さ……ん」

「はい、静麗様」


 静麗に名を呼ばれた一諾は、目を細めて返事をしながら、静麗の胸の前で握り締められた両手を掴んだ。

 そしてその華奢な手を引き寄せると、一諾は身をかがめて静麗の手の甲に口付けた。


「っつ!」


 静麗が息を詰めて身を震わせる。



 御用商人である李が、皇帝陛下の妻である側室に対して、欲を持って手を触れることなど、本来なら絶対にあってはならない事だ。



「静麗様。……お慕いしております。どうか、私を選んでください」



 静麗は余りの衝撃に身をふらつかせた。


 膝から力が抜けてその場にへたり込んでしまうが、両手は一諾に握り締められたままだった。



 ―――一諾さんが、私を? 一体何時から……?



 静麗は、混乱のままに顔を横に振った。


「駄目よ。……正気になって一諾さん、そんな事出来る訳ないわ」

「いいえ。私には可能なのです、静麗様。どうか私に全てお任せください。……貴女はこの様な場所に居るべき人では無い。そして、貴女を捨て、多くの女性を側に置く陛下よりも、私の方が貴女を幸せにする事が出来ます」



 ―――幸せ? 私が一諾さんを選んだら、幸せになれるというの?



 確かに、陛下の周りには皇后娘娘の他にも多くの側室達が犇めいている。

 そして、いくら静麗の元へ皇帝陛下のお渡りがあり、平民としてはあり得ない程の名誉であろうとも、それは静麗の望んだ幸せでは無い。



 ―――私は、……でも、……私の想いは!



 静麗の瞳に涙が浮かんでくる。


「あぁ、お可哀想に。貴女は何も考える必要はありません。私に全て委ねて下されば、必ず幸せにして見せます。それが、私の贖罪にもなります」


 一諾は膝を落とすと静麗にその大きな身体で覆い被さり抱き締めた。




 ―――っつ! 嫌だ!!!




「嫌っ!! 放して!!!」




 一諾に抱き締められた瞬間、静麗は大きな声を出して一諾を突き飛ばした。

 不安定な姿勢であった一諾はよろけて後ろに腰をつけ、茫然と静麗を見詰めた。



「静麗様?」


 静麗も一諾を突き飛ばした格好のまま茫然とそんな一諾の視線を見返した。


 何かを考えてそうしたのではなく、抱き締められた刹那に、違うと感じて身体が反応して一諾を突き飛ばしてしまったのだ。



「あ、一諾さん……私、は、……私は陛下の………陛下が、……」



 静麗の脳裏に、後宮で見た夫の裏切りの数々が思い出される。

 唇を噛みしめ俯く静麗。



 だが、眩い皇帝陛下の衣装に身を包んだ、冷然とした男性の姿に重なる様に、月長殿で静麗に縋る様にして涙を流した姿が、そして故郷で穏やかに愛を育んでいた頃の愛おしい夫の姿が甦る。


 きつく瞼を閉ざした静麗の瞳の端から涙が零れ落ちる。




 ―――あぁ、駄目だ……どれ程忘れようとしても、憎もうとしても、私の中の浩然ハオランを殺すことは出来ない。きっと浩然以外の男性を愛することは、私には出来ないのだわ





 静麗は涙を浮かべた瞳で一諾を見上げた。

 そうして呼吸を整えると、一諾に向き直り姿勢を正し、真摯に言葉を紡いだ。



「一諾さん。私は陛下の事を……愛しています。例え陛下が私の事を捨てようと、私は陛下以外の男性の手を取ることはありません。どうか、このまま帰って下さい。そして二度と月長殿には来ないで下さい」



 静麗は一諾に告げながら、自分の心にも問いかけていた。



 ―――本当にいいのね? きっとこれが後宮から出る最後の機会なのよ。今この男性の手を取れば、もしかしたら本当に全てが上手く行き、幸せになれるのかもしれないのよ? このままこの後宮の片隅で、いつ来てくれるか分からない陛下の事を待ちわび、恋い焦がれながら嫉妬に塗れて一生を終えてもいいのね?



 自問自答を繰り返すが、答えは最初から出ていたのだ。

 後宮に入れられてから此れまでの長い月日、結局皇帝陛下の事を忘れることなど出来なかったのだから。


 そして、皇帝陛下以外の男性に触れられて、心が拒絶し、改めて他の男性では駄目なのだと痛感した。



 では、残された道は一つだ。




 ―――私は後宮ここで、皇帝陛下の最下位の側室として、元平民の陛下の心を支えながら、一生を終えましょう―――





 静麗が人知れず、静かにそう決意を固めた時、月長殿の外廊下へ続く戸が中から開けられ、芽衣ヤーイーが顔を覗かせた。


「静麗様? 叫び声が聞こえた様な気がしたのですが、どうかなさ……」


 言葉を途中で切った芽衣は、大きく目を見開き静麗と一諾の姿を凝視した。


「李さん、これは何事ですか! この様な遅くに勝手に月長殿に入るなど、許される事ではありませんわ!」


 今迄見たことが無い程の剣幕で走り寄ってきた芽衣に、一諾はちっと小さく舌打ちを打った。

 そして、静麗の前にその身を割り込ませようとした芽衣の手を、一諾は素早い動きで掴み取り引き寄せた。


 あっという間に一諾の前に引き寄せられた芽衣の身体は、急にくたりと全身の力が抜けた様にその場で頽れた。



「芽衣っ!!」



 何が起こったのか武術に明るくない静麗には分からなかったが、一諾が何かをしたのは間違い無い。

 静麗は蒼白になり、悲鳴を上げながら芽衣の様子を確認しようと手を伸ばすが、その手を一諾に掴まれ胸に抱きとめられてしまう。


「嫌っ、放して! 芽衣、芽衣! 返事をして!」

「落ち着いて、静麗様。芽衣殿には少し眠ってもらっただけです。もっと穏便に進めたかったのですが、こうなっては仕方がない。……失礼、静麗様」


 その言葉を聞いた瞬間、首の後ろに衝撃を感じ、静麗の意識は急速に暗闇へと引きずり込まれていく。




「…浩、然……」




 小さく夫を呼ぶ静麗の声は、誰にも届くこと無く闇に飲み込まれていった。











第七章 終


次回 挿話



ここまでお読み頂き、ブクマや評価、更にはレビューと、本当にありがとうございます。創作を続ける上で、非常に励みとなっております。


さて、八月八日より閉じていた感想欄を、一時的に再開することに致しました。この後挿話を一話挟み、新章が始まるまでの僅かな期間のみの予定ですが、感想の他、誤字脱字やおかしな箇所等も教えて頂けると嬉しいです。ただ今後の予想や、展開に関しての非難等を書き込むのは出来ればお控え頂くようお願い致します。また作者の都合により直ぐに感想欄を閉じる可能性もありますので、その際はご了承下さい。


そして、次章は皇帝陛下サイドの物語を予定しておりますので、よろしくお願い致します。


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