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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第七章

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十八. 遷移

 


 祖父が亡くなってから一月以上の日が経った。


 その間、静麗ジンリーはふとした瞬間に祖父を思い出しては涙を堪える日々を過ごしていたが、そんな中でも一つ朗報があった。



 静麗は故郷の雅安ヤーアンに居る両親と祖母に対して手紙をしたため、それを確実に届ける為に公主殿下である春燕チュンイェンに託したのだ。

 此れまでは、春燕を頼るという事は、公主殿下としての身分を静麗が利用している様で躊躇っていたのだが、今はその様な事に拘っている時ではないと思い直した。

 妹の様に思っている春燕に、忸怩たる思いで助力を願い出た静麗に対して、春燕は快く引き受けてくれた。


「静麗お姉様は、色々と考えすぎよ。静麗お姉様が私の事をどう想ってくれているのかなんて、分かっているから大丈夫よ」


 そう言うと大輪の花が咲く様に明るい笑顔を静麗に向けた。


「手紙は必ず届けるし、返事も必ず私の元へ持ってこさせるから、安心して頂戴。そうと決まったら、早馬の準備をしなくちゃ! 一番早い馬を用意させるから期待していてね、静麗お姉様!」


 静麗に頼られた春燕は張り切って手紙を受け取ると、直ぐに月長殿を後にした。





 静麗の認めた手紙には、皇都へ着いてから此れまでの事や、心配を掛けたこと、帰る事が出来なくなり、親不孝をする事等を真摯に詫び、許しを請うた。

 そして、一人となった祖母がどう過ごしているのかを尋ねた。

 浩然ハオランに関しては、皇帝陛下と成り、皇后娘娘や多くの側室達と子を儲けた事実だけを、私情を交えずに簡単に書くに留めた。



 返事は静麗が思っていたよりも遥かに早くに春燕を通して返ってきた。


 両親は朝廷から遣わされた使者によって、静麗が平民でありながら側室となった事も、浩然が皇帝陛下と成った事も既に知っていた。

 そして、平民の身分のままで後宮に留まることになった静麗を、只管心配する内容が返信の手紙には綴られていた。

 静麗は申し訳なさと有り難さで、涙を零しながらその手紙を何度も何度も読み返した。



 そして祖母からの返事では、皇帝陛下と成った浩然から、皇都の自分の側に来ないかと誘われた事が書かれていた。

 だが祖母は、夫と娘が眠る雅安の地を離れる気が無い事、残りの余生を二人の墓を守りながら過ごしたいと、浩然のその誘いを断った事が記されていた。

 そして静麗には、浩然の事はもういいから、自分の事だけを考える様に、そして、ルゥオ家の問題に巻き込んで本当に申し訳なかったと、最後に静麗に詫びる言葉が幾つも綴られていた。




 ―――こう成ったのは、御婆様のせいでは無いわ。勿論、御爺様のせいでも……



 故郷に居た頃、静麗と浩然は本当に愛し合って婚姻を結んだのだ。

 その事に関しては、後悔したことは無い。

 浩然の母である冬梅ドンメイの事も、静麗は敬愛していたし、恨んではいない。


 イェン 明轩ミンシュェンが雅安に来るまでは、本当に幸せな日々を送っていたのだ。

 だが、朝廷には、この寧波ニンブォには直系の男性皇族がどうしても必要だった。

 その必要性、重要性を、今の静麗は良く理解している。



 ―――浩然の身に流れる、その高貴な血が、全てを変えた……



 静麗は故郷から届いた、温かな想いが伝わるその手紙に顔を埋めて涙を零した。





 ◇◇◇





 秋も終わりに近づいた、皇帝陛下の生誕のその日、皇都には良く晴れた爽やかな空が広がり、温かな陽射しが降りそそいでいた。



 静麗は昼餉の後、午後から始まる後宮での宴に出席する為に、その準備に追われていた。

 寝台や円卓の上に広げられた幾つもの色鮮やかな襦裙や装飾品を、芽衣ヤーイーと共に確認していく。


 静麗には今更美しく着飾る気も無いのだが、芽衣は普段から静麗の美しく着飾った姿を見る事が嬉しいらしく、真剣に衣装や装飾品を選んでいる。

 その様子を眺めながら、静麗は皇帝陛下の事を考えていた。




 皇帝陛下は、祖父が亡くなった事を知らされた日の深夜に、突然静麗の元を訪れて以来、一度もお渡りをする事は無かった。

 その為、静麗は皇帝陛下が今どの様な状態なのか分からずに不安だった。

 実の祖父を亡くしたばかりの皇帝陛下が、一人悲しみに暮れている姿を想像しただけで、静麗の胸は痛んだ。

 せめて、月長殿にお渡りにでも来てくれれば、その苦しい心の内を聞き、慰めることも出来るのだが、皇帝陛下の方から会いに来てくれない限り、その側近くに行くことも出来ない。

 静麗は自分の立場に歯がゆい思いを感じていた。




 そうして迎えた、皇帝陛下の生誕日を祝う宴が執り行われる日。

 静麗は全ての準備を整えると芽衣と共に月長殿を後にした。


 芽衣が迷いに迷った末に選んだのは、春燕チュンイェンに贈られた高価な襦裙と伝雲ユンユンからの贈り物である簪であった。

 側室としての禄が増えた静麗ではあるが、身を飾る事に執着しない為、未だにこれらの贈り物以上の品を手にしていなかった。



 月長殿から後宮の正門がある銀星門、その前にある皇后娘娘の住まう 蝶貝宮 桃簾殿 を目指して歩いている静麗と芽衣。

 芽衣の手には皇帝陛下への贈り物が捧げられていた。


 当初は皇帝陛下への贈り物などする気は無かった静麗だが、祖父の死は静麗の中で様々な思いを変換させた。



 あの夜、皇帝陛下は何も語らず、否、語れずに、唯静麗の元へ来ることしか出来なかった。

 その皇帝陛下の行動の意味を、静麗はずっと考えていた。







 久しぶりに訪れる皇后娘娘の宮の豪華さは相変わらずだった。


 皇帝陛下の生誕を祝う宴は、皇家と朝廷が主催するのだが、後宮で行われる場合は必ず皇后娘娘の宮で行う事となっている。

 その為、皇后娘娘の侍女や女官が準備を整え、多くが宴の場に控えている。

 その様子を見ただけで、皇后娘娘の背後に控えるヂュ家のその権勢ぶりが良く分かる。


 静麗はそれらを横目に、皇后娘娘の侍女に先導され、芽衣と共に何時もの様に上座からは一番遠い席に着いた。





 宴に出席するに当たり、静麗には一つ不安があった。

 もし、静麗の元に一度ならず皇帝陛下のお渡りがあったことを他の側室達が、特に下位の貴人の側室達が知ったら、一体どういった反応をされるのかというものだった。


 しかし、静麗の心配を余所に、側室達は静麗には見向きもせずに、他の側室達と談笑をしながら皇帝陛下が光臨されるのを今か今かと待ちわびていた。



 ―――誰も私の事を気にしていないわ。……私の所にお渡りがあった事を知らないのか、知っても私では脅威にもならないと侮られているのか



 どちらにしても静麗には幸いだった。

 以前の様に下位の側室達に絡まれても、平民の静麗では唯、耐える事しか出来ないのだから、こうして存在を無視されている方が有り難い。


 ほっと息を吐き、芽衣が手渡してくれた茶を口に含んだ時、騒めきと共に皇帝陛下が現れた。



 何時もの静麗なら、上座にはほぼ視線を向けることはしない。

 だが、今は皇帝陛下の事が心配で、静麗は思わず腰を浮かして上座の方を仰ぎ見た。


 宴の場に侍従や武官を引き連れて現れた皇帝陛下は、さっと宴の場に視線を走らせた。



 ―――っつ!



 その一瞬、皇帝陛下の視線が静麗を捉え、目を細めた気がしたが、その視線は直ぐに外されると、周りが傅き平伏する中を颯爽と歩き、一段高くなった上座に腰を下ろした。


 周りが皆拝跪しているのに気付いた静麗も、慌ててその場で同じように拝跪した。

 唯、拝跪しながらも静麗の鼓動はどくどく、と激しく打っていた。



 ―――今、私の事を、見た……?




 よい、面を上げよと、皇帝陛下が許した声に、皆が顔を上げる。


 静麗は激しく脈打つ胸を抑えながら、もう一度皇帝陛下の顔を見上げたが、皇帝陛下は此方を見ておらず、隣に座る皇后娘娘に声を掛けていた。



 ―――……そう、よね……



 静麗は、ふっと息を吐いた。

 そうして改めて皇帝陛下の顔を見詰めた。



 ―――顔色は、悪くないわ。御爺様の訃報を聞いてから、かなりの月日が経っているもの。……その間に、皇后娘娘や、他の側室様達が皇帝陛下の事を慰めていたのかもしれない……



 静麗は、きゅっと手を握り締めた。



 ―――あの夜だけでは無く、もし、私が陛下の側に居て、その心を慰められる立場に居られたなら……



 静麗は初めて自分が最下位の側室であることを悲しく、悔しく感じた。






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