十七. 哀哭
寝室から居間へ向かうと、其処には芽衣の他に伝雲の姿もあった。
「伝雲?……何故、貴女が此処に?」
まだ夜も明けきらない時刻に、伝雲が月長殿に居る事に静麗は驚いた。
「蒋貴人。昨晩の陛下の護衛に、私も就いていたのです。私は殿舎の外で警護をしておりました」
「まぁ、そうだったの? 雨に濡れなかった?」
静麗が心配して伝雲の身体を見たが、伝雲は平然としていた。
「ご心配には及びません。それに、芽衣殿からお茶をどうかと誘われまして。任務も終了しておりますし、官舎に戻る前に一服頂こうとお邪魔致しました」
伝雲の言葉を聞いた静麗は、頷きながらも護衛をしていた武官である伝雲なら、昨夜の皇帝陛下の様子がおかしかった理由も何か知っているのではと思い問いかけた。
「伝雲。昨夜の陛下の様子は、何処かおかしかったわ。……皇城で何かあったの?」
「蒋貴人。……陛下は何も話されなかったのですね」
伝雲は少し思案する様子を見せたが、小さく息を吐くと静麗を見詰めた。
「そうですね。……貴女にも、関わりがある。それに、いずれ噂にもなるでしょうから、私から先にお話致しましょう」
伝雲はそう言うと、居住まいを正し、真摯な瞳で静麗を見据えてきた。
「皇帝陛下の御祖父であられる、羅家御当主が、先月身罷られ、陛下は昨日その報告をお受けになりました」
「…ぇ……?」
静麗は伝雲の告げた言葉に、己の耳を疑った。
―――御爺様が、………亡くなった……?
呆然と伝雲の顔を見詰める静麗。
伝雲の言葉が、理解出来ない。
否、したくない。
羅家の祖父は確かに高齢ではあったが、まだまだお元気であった筈だ。
静麗は、今言った言葉は嘘だと、伝雲がそう言ってくれるのを待ったが、伝雲は口を引き結んだまま何も語らない。
じわじわと、祖父が亡くなったという事実が、静麗の中で大きくなっていく。
「そんな…、そんな事…………御爺様っ!!」
静麗の口から悲鳴の様な声が迸る。
皇都へと旅立つ前、静麗は祖父と約束をしたのだ。
一年後に、夫と共に雅安へ戻ると。
その約束を果たすどころか、浩然は皇帝陛下と成り、静麗は側室となって皇都から出ることは叶わなくなってしまった。
又、その様な事態となった事もその経緯も、知らせることは出来なかった。
故郷の両親や祖父母達には、朝廷から一体どの様な内容が伝えられているのか、どれ程の心配を掛けたのか。
―――御爺様がお亡くなりになったのは、私達のせいではないの?
静麗は眩暈を起こした様に目の前が暗くなり、ぐらつく身体を支える為に円卓に手をついた。
祖母は身体も余り丈夫な人では無かったが、祖父はとても壮健であったのだ。
静麗達が帰ってこず、その理由を朝廷から一方的に知らされたとしても、平民である両親や祖父母には抗う術など無い。
一体どれ程の心痛を与えたのか、静麗には計り知れない。
―――あぁっ、御爺様、……御爺様!!……私はっ、…貴方との約束を果たせなかった!! あぁ、私は何という事をっっ
静麗はその場で頽れる様に膝を突くと、両手で顔を覆い嗚咽した。
「あああぁぁっ!! 御爺様っ、…御爺様!」
罪悪感に苛まれ、祖父の死を受け止めきれずに、静麗の瞳からは涙が後から後から溢れだす。
「静麗様っ」
「蒋貴人…」
芽衣と伝雲が静麗の横から身体を支えてくれるが、静麗の心の中は慙愧の念で占められていた。
伝雲に抱えられるようにして椅子に腰掛けた後も、静麗は祖父へ謝り続けた。
「御爺様、お許し下さい。私では浩然を支えることも、連れ帰ることも出来なかった! あぁ、御爺様…………」
それからどれ程の時間が過ぎたのか。
涙を流しすぎて、頭の中がぼうっとしていた静麗は、ふと居間の窓から外を見た。
昨夜の雨はすっかり上がり、穏やかな午前の陽の光が、新しく植えた植物達の上に明るく降り注いでいる。
雨に洗われた艶やかな葉が、光を弾いて生き生きと輝いていた。
静麗は居間の中へと視線を戻した。
芽衣と伝雲が直ぐ側で静麗を見守ってくれていた。
「……伝雲。貴女、夜警の後ではなかった…?」
一晩中皇帝陛下の警護に当たっていた筈の伝雲が、今までずっと静麗の側に付いていてくれた事に気付き、静麗はぽつりと呟いた。
「ええ。ですが、お気遣いなく。私は普段から鍛えておりますゆえ、ご心配には及びません」
伝雲は口角を少し上げて優しい笑顔で応えた。
静麗は目を伏せて、伝雲の心遣いに感謝をした。
暫くの間、居間の中には静寂が支配していたが、静麗はふと顔を上げると、小さな声で呟いた。
「浩、…陛下は、……大丈夫なの? 御爺様の訃報を、昨日知られたのでしょう?」
伝雲が静麗の眼を見詰めて、落ち着きを取り戻したのを確認すると、静かに頷いた。
「陛下は、昨日の夕刻に雅安からの使者により、御祖父様の訃報を受け取られました。御祖父様は今から半月程前に突然倒れられ、そのまま身罷られたそうです」
「………」
今から半月も前に祖父が亡くなっていたと聞き、静麗は唇を噛みしめた。
雅安からの距離を考えると、早馬を走らせてきたのは分かるが、既に其れだけの日が経っているという事は、きっともう、葬儀も埋葬も全てが終わっている筈だ。
皇帝陛下は、今やたった二人しか居ない、大切な故郷の身内の葬儀にも出ることは叶わなかったのだ。
それに、一人残された祖母は一体どうなるのか。
「……陛下は、雅安へ…祖父の墓前へ参ることは出来るの?」
静麗は芽衣と伝雲に視線を向けて尋ねた。
しかし、伝雲は静かに首を横に振った。
「でも、……でもっ、陛下にとっては、血の繋がったご家族の葬儀にも出ることが出来なかったのよ! せめて、…せめて、墓前に参ることぐらいは、出来ないの……?」
静麗の涙混じりの悲痛な声にも、伝雲は首を縦に振ることは無かった。
「陛下が皇都から出られることなど、よほどの事が無い限り、あり得ません。特に、今はまだ皇子殿下方は幼い。この様な状況の中で、陛下の御身に万が一の事があっては、寧波の存続にも関わるのです」
「でも! 皇太子殿下には、皇后娘娘の御子がなると決まっているのでしょう? だったら、…!!」
「そうです。ですが、もし今、皇太子殿下に何かあれば、他の皇子殿下の中から選ばれるのか、その先皇后娘娘が新たに皇子殿下をお生みになるのを待つのか、分からないのです。不要な争いを避けるためにも、陛下には皇城にいて戴かねばなりません」
伝雲の説明を聞きながら、静麗は手をきつく握り締めた。
「陛下の御身は、陛下の御意志のみで動かしてよいものでは無いのです」
伝雲の一見冷たく聞こえる言葉を聞きながら、静麗は唇を噛みしめ、顔を俯けた。
この大国寧波で、至尊の存在である筈の天子となった夫だが、あれ程敬愛していた己の祖父の葬儀に出ることも出来ず、その墓前に参じる事も叶わず、たった一人残った祖母を側で支えることも出来ないとは………
手に入らない物は無い、最上の御位に居る筈なのに、なんと不憫な事だろう。
静麗は皇帝陛下の、その身動きも取れない不自由さを哀れに思った。
皇帝陛下と言えど、自分の意志を全て通す事など出来ないのだと、この時静麗は初めて知った。
そして昨夜、深夜になって突然静麗の元へと現れた皇帝陛下の心の内を慮り、静麗は瞳を伏せた。
昨夜、皇帝陛下は祖父の死を静麗に告げなかった。
否、告げる事が出来なかったのかもしれない。
―――もし、陛下も私と同じように、自分の事を責めていたのだとしたら………
静麗は静かに瞼を閉ざした。
故郷に居た頃の浩然は、誠実で思いやりのある人だった。
皇都へ来て、至高の存在である皇帝陛下と成り、変わってしまったと思っていたが、根本の性格がそれ程急に変わるものだろうか……?
先程伝雲は皇帝陛下の身体は皇帝陛下の意志だけでは動かせないと言っていた。
静麗は平民の身分で側室となり、後宮に馴染めずに苦労して来たが、平民から至高の存在と成った皇帝陛下にも様々な苦労があったのではないのか?
そこまで思いを馳せた静麗は、後宮に入ってから今まで、自分の事しか考えていなかった事に気付いた。
―――御爺様。私は夫を支えると約束していたのに、自分の境遇ばかりを気にして、浩然の立場を考える事などしてこなかった
皇帝陛下の今までの自分に対する仕打ちを許せる訳では無いが、静麗も皇帝陛下と成った夫の事を理解しようとする努力を此れまでしてこなかった。
―――私は、夫の裏切りを許せないかもしれません。……ですが、御爺様。貴方との約束を果たす為にも、此れからは皇帝陛下を理解する努力をしていきます。あの人は、今更私の支えなど必要としないかもしれないけれど、元平民の皇帝陛下の気持ちを少しでも理解してあげられるのは、後宮では私しか居ないのかもしれないから………
静麗は遥か遠い地で眠る、愛する祖父に対し黙祷し、今一度、皇帝陛下と向き合おうと考えを新たにした。




