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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第七章

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十六. 雨雫

 


 その日、昼過ぎから降り始めた雨は夜になっても止むことは無かった。



 静麗ジンリーは居間の窓から裏庭を眺め、止む気配を見せない雨に溜息を吐いた。



 ―――せっかく咲いた金木犀の花が散ってしまうわ



 今年植えたばかりの若木であったので、花を楽しめるのは来年以降かと思っていたのだが、僅かではあるが金木犀は花を咲かせた。

 静麗は懐かしいその甘い香りを楽しみ、小さな橙色の花を愛でた。





 ◇◇◇





 皇帝陛下の三度目のお渡りの後、流石にもうこれ以上の訪れは無いだろうと、不安な予感を振り払っていた静麗だが、その予感は現実のものとなった。

 皇帝陛下はその後も一定の期間を開けては、静麗の元を訪れる様になる。


 当初は、他の女性達を抱いてきた手で触れられることに嫌悪が募ったが、それも繰り返す逢瀬の内に諦めの気持ちが大きくなり、やがて其れすらも感じなくなっていった。

 それに反して皇帝陛下のお渡りをお受けする度に、未だに夫であった男性への想いを完全には断ち切れず、未練の心が残っているのを感じ、辛くなった。

 どれ程忘れようとしても、目の前にその姿があり、優しく抱き締められると忘れることなど出来よう筈も無かった。

 皇帝陛下に抱き締められ、静麗は歓喜と絶望を同時に味わった。

 だが、もう皇帝陛下に振り回されて、心乱されたくないと思った静麗は、唯、無心で側室としての役目を果たし続けた。


 そんな静麗の様子をじっと見詰める皇帝陛下の視線からは目を逸らし続けて……





 ◇◇◇





 しとしとと降り続ける雨を眺め、花が散ることを残念に思いながらも、もう今日は休もうと考えて寝室へ向かおうとした時、居間の外から誰かが歩いてくる大きな足音と騒めきが聞こえてきた。



 芽衣ヤーイーの足音では無い。

 芽衣ならば、あの様に乱れた重い足音を立てて歩くことは無いだろう。


 芽衣以外の何者かが、静麗が居るこの居間を目指して足早に歩いている。



 静麗は、居間の窓際に立ったまま、早まる鼓動を感じた。

 今迄にはなかった状況に、逃げた方が良いのか、このまま此処にとどまった方が良いのか、静麗は迷った。



 ―――落ち着いて、静麗。ここは皇城の後宮の中よ。夜盗が出るような場所では無いのだから、危険など無い筈



 静麗が自分に言い聞かせながら、息を詰めて居間の戸を見詰めていると、戸が乱暴に開け放たれた。

 驚きに目を見開いて見詰めた先に居たのは、冷徹な顔をした皇帝陛下であった。



「浩然…?」



 静麗が唖然としたまま思わず呟いたが、直ぐにその口を手で押さえた。



 ―――いけないっ! 名を呼ぶなと言われていたのに……



 とっさに皇帝陛下の名を呼んでしまった静麗は、慌てて頭を下げるとその場で膝を突こうとした。

 しかしその前に、皇帝陛下は大股に歩き、素早く静麗の前までやって来ると、いきなりその華奢な腕を掴んだ。


 皇帝陛下の表情は何時もの様に冷然として、感情を窺う事は出来なかったが、静麗の腕をきつく掴んでくるその手は、微かに震えている様に感じた。



 静麗が驚いて口を開けようとした時、皇帝陛下の侍従と武官、それに芽衣が慌ただしく居間へと現れた。



 皇帝陛下という、至尊の御位に居るお方が突然現れたことにも大変驚いたが、其れよりも、皇帝陛下の様子が何時もとは違う事に静麗は戸惑い、問いかける様に後ろの従者達を見詰めたが、侍従達は皆その場に跪き頭を下げるだけだった。

 静麗が皇帝陛下や侍従達を訝しく見ているが、誰も口を開こうとはしない。



 ―――何……どうしたの……?



 静麗は皇帝陛下に視線を戻した。

 傍目には、皇帝陛下は何時もと同じ冷静な顔をして、ただ側室と対面しているだけに見えるだろう。

 だが、静麗には皇帝陛下が何か激情を耐えている事が分かった。


 静麗は自分の腕を掴んだまま口を引き結び、一心に見詰めてくる皇帝陛下を見返した。

 そうして皇帝陛下の瞳を覗き込んだまま、後ろに控えている者達へと声を掛けた。


「貴方達は、此処で控えていて頂戴」


 静麗は侍従や芽衣にそう言い残すと、皇帝陛下の腕をそっと引いて奥の寝室へと導いた。






 寝室の中には、昼に少しだけ摘んできた金木犀の花の香りがまだ残っていた。


 静麗と皇帝陛下は薄暗い寝室の中で二人きりとなった。

 皇帝陛下は暫くその場にただ立ち尽していたが、静麗がその前に立ち、その冷たく整った、美しい顔にそっと小さな手で触ると、表情を一変させた。


 其れまでの無表情で冷然としていた顔を歪ませると、きつく瞼を閉じて歯をくいしばった。

 そして無言で静麗を掻き抱くと、その腕の中へと静麗を閉じ込めた。

 大きく温かな胸に顔を押し付けられた静麗は、皇帝陛下が手だけでは無く、全身を小さく震わせている事に気付いた。




 ―――…泣いている? ……どうしたの? 何があったの……?





 皇帝陛下は、…夫であった浩然ハオランは、滅多な事では涙など流さなかった。

 其れこそ浩然の母である冬梅ドンメイが亡くなった時ぐらいしか、静麗は浩然が泣く場面を見たことが無い。

 何か、よほどの事が起きたのかと静麗は心配になる。


 普段後宮の最奥に居て、皇城での出来事など何も知らない静麗では、一体何が皇帝陛下の感情をこれ程までに乱したのか分からなかった。

 ただ、その肩を濡らす雨の雫に震える皇帝陛下を抱き締め返した。



「…大丈夫。……大丈夫よ」



 幼い頃から何時も浩然がしてくれたように、髪や背を撫でて慰める。

 皇帝陛下は震えながら、小さな静麗に縋り付くようにその身を深く懐へと抱き締めた。




 今この場に居て、静麗に感情を曝け出しているこの男性は、大国寧波ニンブォの皇帝陛下では無いと、静麗には思えた。

 そして最下位の側室にでは無く、平民である唯の静麗を必要として会いに来た、嘗ての夫の様に感じたのだ。




 震える大きな身体を抱き締めていると、諦めや嫉妬、憎しみの感情の下に隠され、閉じ込めていた筈の想いが僅かに浮かび上がってくる。



「……、……麗…」



 小さな、―――静寂の中でさえ聞こえない程の小さな声が、皇帝陛下の引き結ばれた口から洩れた。

 皇帝陛下は腕の中に閉じ込めた静麗を強く抱き締め、苦痛から逃れるように、その名を呼ぶ。



「静麗…、静、麗……」



 呟く様に、唯、その名を繰り返す皇帝陛下。

 静麗は華奢な腕を精一杯伸ばして、皇帝陛下の大きな背を抱き締め返した。



「…大丈夫よ、私がいるわ。……私は何時でも月長殿ここにいるから……」



 静麗は名を呼ばれる度に返事をし、応え続けた。










 その夜、皇帝陛下は初めて月長殿で長い刻を過ごした。


 夜明け前のまだ暗い時刻に皇帝陛下は寝台から身を起こした。

 そうして昨夜脱ぎ捨ててあった衣装を手に取ると、素早く身に着けて身支度を済ませる。

 静麗も共に起きて、言葉を発することなく皇帝陛下の着付けの手伝いをする。


 皇帝陛下は衣装を整え、乱れた髪を直すとそのまま寝室から出ようとした。

 しかし、寝室の戸の前で立ち止まるとそのまま動かなくなった。


「陛下? 如何いかがなさいました」

「…ジィァン貴人……」


 振り返って静麗の顔を、目を細めるようにして見詰める皇帝陛下。

 二人の眼差しが重なり、静麗は息を飲んだ。


 まるで、婚姻した頃の様な、熱い眼差しで皇帝陛下に見詰められ、静麗は動揺の余り皇帝陛下から目を逸らした。

 皇帝陛下がゆっくりと動き、静麗の元へ一歩踏み出そうとした、その時。

 寝室の外から侍従の声が掛かった。


「陛下。申し訳ございません。夜が明けます。お早く」

 ぴくりと動いた皇帝陛下は、寝室の戸を一瞥し、静麗を再び見る。


「………」


 皇帝陛下は一度口を開くが、そこから言葉が出ることは無かった。


 皇帝陛下は僅かに首を振り、もう一度静麗に顔を向けた時には、見慣れた冷然とした表情に戻っており、そのまま部屋の外へと出ていった。


 静麗はぼんやりとその後ろ姿を見送ると、寝台へ頽れる様に座った。



「何……?」



 なぜ皇帝陛下が今更あの様な眼差しで自分を見たのか。

 一瞬ではあったが、まるで愛し合っていた頃の、昔の夫の様な瞳をして皇帝陛下は静麗を見た。


 それに、昨日の皇帝陛下の様子は、明らかにおかしかった。

 一体皇城で何があったのか。


 不安に感じた静麗は、芽衣が待つ居間に向かおうと、寝室を後にした。



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