十四. 片割月
月長殿の庭に樹木や草花を植えてから一月以上の日が経った。
その間に気温は随分高くなり、李商会から購入して植えていた草花も蕾を付けて咲き初め、樹木も青々とした葉を茂らせている。
殺風景で寂しかった庭も、以前と比べると自然で落ち着ける雰囲気へと変わっていた。
静麗はその日、小さな池の横にある木の下に敷物を敷くとその上に座り、池の水面を吹き渡る風を受けて涼んでいた。
静麗が心地よい風に目を細めながら眺めた視線の先には、咲き始めたばかりの小さな愛らしい花々が風に揺れていた。
それらをぼんやりと見詰めながら、静麗の思考は李 一諾から言われた言葉に占められていた。
何故、一商人でしか無い一諾が、側室である静麗にあのような危うい言葉を告げたのか。
もし、誰かに聞かれれば、平民でしかない一諾も只では済まされないだろう。
―――…仮に、過去に後宮から逃げだせた側室が居たとしても、今の私にそんな事が出来るとは思えないわ
後宮から出ることが可能ならば、勿論静麗とて出たい。
だがそれは、誰も傷つける事が無い場合の話だ。
芽衣や両親に、万が一の事があるかもしれないと考えると、とてもでは無いが試そうとは思えない。
一諾とはあの後にも何度か会っているが、二人きりになる機会が無い為に静麗はその真意を聞けずにいたし、一諾も普段通りで、あの時の事はまるで静麗の夢であったかのようだ。
―――このまま、何も聞かなかった事にした方がいいのかしら……
ただでさえ、皇帝陛下が二度も月長殿を訪れて、静麗の穏やかな生活や心の安定が崩れているのに、これ以上の不穏な要素は欲しくない。
静麗は不安な思いを抱えて深い溜息を吐いた。
◇◇◇
その日の夜、日中の暑さがまだ少し残っているのを感じ、静麗は夕餉の後に一人で裏庭に出て涼んでいた。
円卓の上に燭台を一つ置き、花茶を用意してその香りを楽しみながら月明かりに照らされた庭を眺める。
灯りが燭台一つしか無い為、月の光を邪魔するものは何も無く、冴え冴えとした青い月の光が、静かな月長殿の庭を優しく包み込んでいた。
その静謐の中で心穏やかな一時を過ごしていた静麗だが、月長殿から裏庭へと人が降り立つ気配を後ろで感じた。
「静麗様、あの…」
芽衣も涼みに来たのかと静麗は思い、そのまま顔を上げて美しい夜空を見上げた。
「芽衣、見て。今日はとても綺麗に月が見えるわ」
雲一つない夜空には、満天の星々と、半月が輝いていた。
「月見か…」
芽衣の穏やかな優しい声では無く、低い男性の声が耳に届き、静麗は驚きに肩を震わせると立ち上がり、勢いよく後ろを振り返った。
静麗の結上げていない長く艶やかな黒髪が、月の光を反射しながら大きく広がりなびく。
青く澄んだ月の光を受けて、静麗の後方、月長殿の外廊下に佇んでいたのは皇帝陛下であった。
「静麗様。…皇帝陛下の御成りで御座います」
階段を下りた先、裏庭で跪いている芽衣が、頭を下げながら静麗に静かに告げる。
静麗は、今目に映っている光景が現実とは思えずに、月明かりに浮かぶ、美しく高貴な皇帝陛下の面差しを呆然と見詰めた。
皇帝陛下としての豪奢な衣装では無く、簡素な衣装に身を包んでいたが、その麗しい尊顔と高貴な佇まいは隠すことは出来ない。
皇帝陛下の後ろには、前回同様に蘇と近衛武官二名も控えているのが見えた。
「……何故…?」
静麗の驚きで掠れた声での問いかけに、皇帝陛下は答えずに庭に視線を向けた。
「金木犀か。……懐かしいな」
皇帝陛下が見詰める先には、先月植えたばかりの金木犀の若木があった。
まだ花も付けていないその若木を、皇帝陛下は目を細めて見ている。
前回のお渡りをお受けしてから、まだ二月程しか経っていない。
もう、今度こそ来ることは無いと考えていた静麗だが、皇帝陛下はまたしても月長殿を訪れた。
しかも、本日は先触れの使者を寄越すこともせずに、いきなり皇帝陛下自身が裏庭へと現れたのだ。
驚きの余り、どう対処してよいのか分からずに静麗が固まっていると、皇帝陛下はゆっくりと階段を下り、裏庭へと降り立った。
静麗が皇帝陛下に拝跪することも忘れ、茫然とその場に立っていると、皇帝陛下は静麗を見据えたまま低く声を上げた。
「蘇、郭、陶。これへ」
皇帝陛下の声に、後ろで控えていた侍従と近衛武官は、素早く動くと皇帝陛下の直ぐ後ろへと走り寄り、侍従はその場で跪き、近衛武官は片膝を突いた。
「蒋貴人。余の侍従の蘇と、近衛武官の郭と陶だ。月長殿にはこの者達と来るであろうから、覚えておくと良い」
皇帝陛下の紹介を受けた三人は静麗に向かい深く頭を下げた。
しかし、皇帝陛下の言い方では、まるでこの先も月長殿を訪れると言っている様に聞こえる。
静麗は当惑したまま三人に目を向けた。
その時、近衛武官の一人に見覚えがあるような気がした静麗は、眉を顰めてその顔を凝視した。
―――あぁ、思い出した。一年以上前に、銀星門の前で陛下と再会した時、陛下の直ぐ後ろに控えていた武官の男性だわ
その大柄な近衛武官を見ていると、先程の皇帝陛下の言葉が甦る。
―――郭? もしかして、近衛武官の副官を務めているという、伝雲のお兄様? だとしたら……
ちらりと芽衣に目をやるが、芽衣は只管心配そうに此方を伺っている。
その芽衣の視線を受け止めた静麗は、私は大丈夫という様に、小さく頷いた。
そうして、小さく深呼吸をすると、改めて皇帝陛下に顔を向けた。
皇帝陛下は静麗の様子をずっと見ていたのか、直ぐに二人の視線は重なった。
暫くは無言で月明かりの下、互いの瞳を覗き込んでいたが、先に動いたのは今回も皇帝陛下だった。
皇帝陛下は前回同様に、その大きな手をすっと差し伸べてきた。
静麗は、己の前に差し出されたその手を一拍見つめた後、小さな手を伸ばして皇帝陛下の手を取った。
皇帝陛下は少し目を伏せた後、徐に夜空を見上げた。
静麗も皇帝陛下の視線を追い、顔を空へと向けた。
そこには無数の星々に囲まれた、欠けた月が静かに浮かんでいた。
◇◇◇
裏庭から寝室へと場所を移した静麗は所在なさげに立ち尽していた。
「…陛下、何かお飲みになりますか?」
静麗が沈黙に耐えかねて声を掛けるが、皇帝陛下は小さく首を振った。
そして、静麗の腕を掴むと引き寄せて、そっと抱き締めてくる。
静麗はその温かな腕の中で小さく尋ねた。
「陛下。……何故、ですか?」
静麗の声が聞こえたのか、皇帝陛下は少し身体を離すと、上から静麗の顔を覗き込んできた。
「何故、私の所へ?……私の子は要らないのでしょう? だったら、どうして、私の所へ来るの?」
静麗の掠れた小さな問いかけに、皇帝陛下はもう一度強くその小柄な身体を抱き締めてきた。
「蒋貴人。……其方がどう思おうと、其方は余の側室であることに変わりは無い。其方は、余の……だ」
皇帝陛下の声は、その大きな胸に抱きとめられていた静麗には良く聞こえなかったが、あくまでも側室として扱おうとしている事だけは分かった。
静麗は諦めた様に小さく頷いた。
「蒋貴人」
皇帝陛下の低く呼ぶ声が聞こえ、静麗は顔を上げた。
皇帝陛下が身をかがめてくる。
口付けされるのかと思った静麗は、虚しい思いのまま目を閉じたが、皇帝陛下は静麗の首元に顔を埋めると、その耳に唇を押し当てた。
「頼む。どうか、後宮で大人しくしていてくれ」
「えっ?」
静麗は訝しく思い、目を開けると皇帝陛下の顔を見上げた。
「陛下? それは、どういう…?」
「……其方は、何も知る必要は無い。余の命に従って居れば良い」
皇帝陛下は冷然とした大きな声でそう告げると、静麗の肩を引き寄せて寝台に向かった。
静麗は、皇帝陛下の意図することが分からずに混乱した。
しかし、皇帝陛下はそんな静麗の混乱を余所に、静麗を寝台に沈めて翻弄すると、その後静かに月長殿から立ち去ったのだった。




