十二. 残香
皇帝陛下の二度目のお渡りをお受けした静麗は、何時もよりも早い時刻に目を覚ました。
寝台から身を起こすとぼんやりとした眼差しで寝室を見渡した。
微かに皇帝陛下が使っている高価な香の香りが残っている様に感じて、静麗はすんと鼻を鳴らした後、大きく溜息を吐いた。
突然の皇帝陛下の再訪を受け、昨日はそれらに対応するのに精一杯だったが、一晩経った今では落ち着きを取り戻している。
昨夜も皇帝陛下は静麗と閨を共にしたが、静麗との子を欲していない事は察することが出来た。
高位貴族の姫君達との子は何人いても皇家の為になるのだろうが、平民の静麗の子は要らないという事だろう。
静麗は唇を噛みしめて手を握り締めた。
しかし直ぐに力を抜くと、ふっと笑った。
―――子は出来ない方がいいわ。こんな場所で平民の私の子が、幸せになれる筈がないもの
静麗は寝台から降りると、寝衣の上から上衣を羽織り窓から裏庭を眺めた。
まだ朝早い時間のせいか薄暗く、外はまだうっすらとしかその景色が見えない。
静麗は窓の外から寝室へと視線を戻した。
―――でも、……陛下が昨日私に言った言葉。……あれは、どういう意味だったの?
共に寝台に上る前、皇帝陛下の胸にきつく抱き締められながら、その耳元で囁かれた言葉を静麗は確かに聞いた。
もしかしたら、皇帝陛下は静麗に聞かせるつもりで言った訳では無いのかもしれない。
しかし、燭台が一つしか灯されていない薄暗い部屋の中で、静麗をその腕の中に閉じ込めて、皇帝陛下は確かに言い、静麗は其れを聞いたのだ。
――― 俺を、憎んでくれ………と。
驚いて、皇帝陛下を仰ぎ見ようとしたが、そのまま顔を皇帝陛下の胸に押しつけられた為、皇帝陛下がどんな表情を浮かべていたのかを見ることは出来なかった。
だが、静麗の首筋に顔を埋めて、小さな声をまるで絞り出す様に言った、あの言葉の真意は一体何だったのだろう。
皇帝陛下に言われるまでも無く、静麗は夫であった皇帝陛下の裏切りを憎んでいるし、恨んでもいる。
しかし、嘗て愛していた夫の事を、完全に忘れ去ることが出来ないのもまた真実であった。
静麗は目を伏せて溜息を吐いた。
―――自分の心なのに、なんて儘ならないの
◇◇◇
静麗が皇帝陛下のお渡りをお受けした数日後、月長殿には来客があった。
それは、梁 春燕公主殿下と貴人の葉 彩雅であった。
以前静麗から彩雅の話を聞いた春燕が、一度彩雅に会いたいと言い出し、月長殿で茶会を開く事となったのだ。
茶会を開く事など当然初めての静麗は戸惑っていたが、芽衣に助けられながら準備を終えることが出来た。
思いもよらない皇帝陛下の二度目のお渡りをお受けした直後は、様々な感情が溢れていたが、こうして忙しく動いている内に気持ちも落ち着き、静麗は日常を取り戻していった。
最初に月長殿を訪れたのは彩雅であった。
静麗は応接間に彩雅を招き入れ、人払いをすると、躊躇いながらも皇帝陛下の二度目のお渡りをお受けした事を正直に打ち明けた。
仮に、他の側室の口から偏った噂として彩雅の耳に入る様な事があるのなら、先に自分の口から正確な情報を告げたいと思っていたのだ。
静麗から話を静かに聞いていた彩雅は、目を閉じると暫くそのまま動かなかった。
静麗は、やはり閨の事を同じ側室である彩雅に告げるのは、礼を失していたかと不安を覚え、少し後悔した。
漸く目を開けて、不安そうな静麗を見た彩雅は、ふっと力の抜けた笑みを浮かべた。
「蒋貴人。よく話してくれました。……分かりました。これで私も覚悟を決める事が出来ましたわ」
彩雅は何かに吹っ切れた様に笑うと、もう一度大きく息を吐いた。
「葉貴人様…?」
静麗の話を聞いて、一体何が分かって何を吹っ切ったのか。
訝しく見てくる静麗に、彩雅はふふっと少し寂しそうに笑うと、何時もの自尊心の高い貴族の姫君としての姿に戻った。
「貴女が気にする事ではありませんわ。……但し!…私以外の側室達には決してその事を言ってはいけませんわよ」
「はい、それは勿論言いませんが……」
皇帝陛下との伽の話など、寵を頂く事に躍起になっている他の側室達に出来る筈も無い。
静麗は釈然としない気持ちのままで頷いた。
静麗が貴人位としては異例の二度のお渡りをお受けしたと聞いても彩雅の態度は変わることが無かった。
その事の方が静麗にとっては重要だったので、訝しく思いながらも素直に頷いたのだった。
―――側室として後宮に上がった以上、陛下の寵をお受けする事は一族からの命題だった筈。初めてお会いした時も、葉貴人様は皇帝陛下の事をとても気にしておられたもの。……きっと寵愛をお受けして、陛下の御子を授かることを望んでいた筈だわ
しかし彩雅は、嫉妬に狂って静麗を詰ることも無く、内心はどうであれ、淡々とその現実を受け止めて見せた。
そうして応接間で二人で茶を飲んでいると、芽衣が春燕の到着を知らせてきた。
それを聞いた彩雅は、少し緊張した面持ちで公主殿下を出迎える為に席を立った。
貴人位という低位の側室にとっては、前皇帝陛下の息女である公主殿下というお方は、やはり近寄り難い尊い存在なのだろう。
芽衣に先導されて応接間に入って来た春燕は、まず静麗に対してにこりと微笑むと、彩雅には見向きもせずにいきなり抱きついて来た。
「公主殿下?!」
静麗は突然の春燕の行動に驚いた様に声を上げたが、春燕は静麗に抱き着いたまま、彩雅にちらりと視線を向けた。
その視線を真正面から受け止めた彩雅は優雅に膝を落とすと、皇族に対する礼を恭しく行った。
それをじっと見ていた春燕は少し首を傾げた後、頷いた。
「葉貴人。許します。お立ちなさい」
春燕の許しを得た彩雅はその場でもう一度深く頭を下げた後、静かに立ち上がった。
その様子を、はらはらしながら静麗は見守っていた。
何時もは静麗に甘えてくる、可愛い妹の様な春燕の、公主殿下としての威厳を改めて感じ、そして彩雅と上手く打ち解けられるのかと不安を覚えた。
春燕も、彩雅も、どちらも少し、否、貴族や皇族としてはかなりの変わり者同士なのだから、静麗が心配するのも当然だった。
「静麗お姉様。私、少し葉貴人と二人で話がしたいのだけれど、宜しいかしら」
にこりと可愛く微笑みながら静麗におねだりしてくる春燕に、静麗は思わず頷きそうになった。
だが、直ぐにはっとして彩雅の顔を見た。
「蒋貴人。私も公主殿下と友誼を結ばせて頂きたいですわ。茶会の席は確か裏庭でしたわね。直ぐに参りますから、貴女は先に其方で待っていらして?」
彩雅にも優雅に微笑まれて、二人に促された静麗は後ろ髪を引かれながらも応接間を後にした。
その後、暫くして二人は茶会の席を用意していた裏庭に現れたが、一体どういった話をしたのか、二人はすっかり意気投合していた。
呆気に取られていた静麗だが、静麗と友誼を結んでいた二人が楽しそうに話している姿が嬉しく、穏やかな笑みを浮かべた。
静麗が主催した初めての茶会は、参加者が僅か三人しかいなかったものの、後宮で開かれる茶会としては嘗てない程に和やかに行われたのであった。




